象(動物)

ぞう

 日本でも象という動物の存在は古くから知られていた。平安期の事典『和名抄』には、象の姿について、「水牛に似て大耳、長鼻、眼細く、牙長き者なり」とある。室町・戦国期には、東南アジアからの贈り物として生きた象が日本に入ってくる事例がいくつかみえる。

パレンバンから来た象

 応永十五年(1408)六月、若狭の小浜に「南蕃船」が来航。亜烈進卿(東南アジア・パレンバンの華僑の頭目、施進卿)が派遣したこの使節は日本国王に対して「生象一疋黒、山馬一隻、孔雀二対、鸚鵡二対、其外色々」を進上した(「税所次第」)。日本に生きた象が入ってきた早い事例とみられる。

カンボジア国王から大友氏への贈り物

 天正七年(1579)、カンボジア国王の使節を乗せた船が薩摩の島津氏に抑留される。この船の中に象がいた。使節が所持していたカンボジア国王の国書には、国王「浮喇哈力汪加」が「日本九州大邦主源義鎮」(大友宗麟)に対し、銅銃一門や蜂鑞三百斤、象一頭を贈るとともに「象簡」(象つかい)一名、「鏡匠」二名を派遣しようとしていたことが記されている(『頌詩』)。

 慶長二年(1597)七月、ルソンから豊臣秀吉に銀盤や銀椀とともに「黒象一隻」が贈られた。このことを伝える『鹿苑日録』の記事には「象到日本者、三十五、六年已然、贈豊後太守大一(ドモ)之由聞之」ともあり、永禄年間から天正初期頃にも大友氏のもとに象が渡来したとの風聞が京都にあったことが分かる。

 イスパニアの貿易商人アビラ・ヒロンは『日本王国記』の中で、カンボジアの王がドン・フランシスコ(大友宗麟)に象一頭送ったことがあったが間もなく死んでしまったと記している。

マニラ総督からの贈り物

 『日本王国記』には慶長二年七月の象来日の様子が詳しく記されている。イスパニアのマニラ総督ドン・フランシスコ・テーリョが派遣した使節は大坂で象を通りに引き出した。そこに大勢の人々が象を見ようと駆けつけてきて、幾人かの死者が出るほどであった。
 使節に謁見した豊臣秀吉が象に近づくと、象使いの命令で地面に三度ひざまずき、鼻を頭の上にもち上げて大きな吠え声を放ったり、お辞儀をしたりしたという。ドン・ペドロと呼ばれたこの芸達者な象に秀吉はご満悦であったようだ。

ベトナムからも

 慶長七年(1602)にも交趾国(ベトナム)から徳川家康に象が贈られるなど(『時慶卿記』)、戦国期から江戸期にかけての盛んな海外通交の中で、東南アジアなどから象が連れてこられる機会は以前の時代に比べれば増えたようである。狩野内膳の南蛮屏風にも南蛮人が乗った象が精緻に描かれている。

Photos

市場・積出港

人物

  • 施進卿:パレンバンの華僑の頭目。明朝より旧港宣慰使に任じられた。
  • 大友宗麟
  • 浮喇哈力汪加:大友宗麟に象を贈ろうとしたカンボジアの王。サター1世か。
  • 握郎烏丕沙哥: 天正七年に九州に来航したカンボジア船の船主。
  • ドン・フランシスコ・テーリョ

その他の関連項目

参考文献