多賀谷 景時

たがや かげとき

 16世紀前半頃の海賊衆・蒲刈多賀谷氏の当主。江戸期編纂の「譜録」多賀谷久兵衛にその名が見え、「尼子家に属し、後大内氏に属す」とある。

景時が子の興景とともに尼子勢を迎え撃った蒲刈城(丸屋城)。
景時が子の興景とともに尼子勢を迎え撃った蒲刈城(丸屋城)。

多賀谷氏の所領

 大永三年(1523)六月、出雲尼子氏は西条鏡山城攻略により、東西条全域を勢力下においた。このとき国人・平賀氏から尼子氏に提出された「東西条所々知行注文」には各所領の貫高と知行者が列記されているが、その一つ「仁賀田河尻七十五貫」に多賀谷氏の知行地がみえる。大永三年以前、多賀谷氏の勢力は蒲刈島だけでなく対岸の仁方や川尻にも及んでいたことが分かる。

子の興景の討死

 鏡山落城後の多賀谷氏について、「譜録」には景時の子・興景にの項で「蒲刈城において尼子氏と戦い死す」とある。尼子方の軍勢が蒲刈にも押し寄せ、興景が戦死し、景時も降伏して尼子氏に服属したことがうかがえる。

蒲刈多賀谷氏の衰退

  景時はまもなく大内方に復帰したと思われるが、追い討ちをかけるように大永七年(1527)三月、多賀谷兵部少輔をはじめとする多賀谷氏の主だった者二十四人が厳島で水死する事件が起きる。厳島社家・棚守房顕は「其後ハ、カマカリ荒果人体ナシ」と記しており(『房顕覚書』)、多賀谷氏の決定的な衰退をにおわせている。

 この後、小早川弘平は長福寺の僧に対して、「野間氏が蒲刈を手に入れようとしているが、方々からは竹原小早川が蒲刈を支配すべきであると言われている」として、大内氏への周旋を依頼している。この時の景時の動向は生死を含めて不明だが、もはやそこに蒲刈の領主としての多賀谷氏の姿はない。

Photos

丸屋城の土塁跡。 丸屋城の堀切跡。

関連人物

  • 多賀谷興景:景時の子。蒲刈における尼子氏との合戦で戦死。
  • 多賀谷兵部少輔:多賀谷氏の有力者か。

その他の関連項目

参考文献

  • 「古代・中世の蒲刈」(『蒲刈町史・通史編』 2000)
  • 『下蒲刈町史 資料編』 1998