西条(四日市)
さいじょう
安芸国中央部の西条盆地に位置する市場町。古代以来、安芸国の中央部と東部沿岸地域を結ぶ山陽道の要衝にあった。天平十三年(741)に聖武天皇の勅令で建立された国分寺のうち、安芸国分寺はこの西条に建立されている。
安芸国大内氏領の中心
室町期、安芸国に進出した大内氏は、東西条(現在の西条盆地、黒瀬川流域及び呉周辺の内海沿岸部)を所領として獲得。西条の町の南に位置する鏡山城に東西条代官をおいて安芸国を支配した。
山陽道の宿場町
戦国期の安芸支配の上で地勢的要地を占めていた西条四日市は、同時に山陽道の重要な宿場町でもあった。『中書家久公卿上京日記』によれば、天正三年(1575)三月、伊勢参詣の途上にあった島津家久は二十六日に八木の渡しで太田川を渡河し、二十七日に「さいちやう(西条)の四日市」を通過し田万里を経て三原方面へ向かっている。 天正十五年(1587)三月には、九州に下向する羽柴秀吉も三原から海田までの途上で「安芸四日市」に逗留している。
明応四年(1495)十二月、三戸三郎五郎は天野興次から西条の「ふる市(古市)」と「いま宿(今宿)」の知行を与えられている(「閥閲録 巻109」)。遅くともこの時期には、宿場や市町が形成されていたことがうかがえる。また年未詳十一月、毛利輝元が何らかの「祝言」における「西条宿」での準備について、赤川十朗左衛門尉と粟屋元信に命じている(「譜録」赤川忠右衞門實方)。わざわざ「まれの儀候間、一入こころを付候て馳走肝要候」とまで述べているので、かなり重要な「祝言」だったらしい。
市目代による支配
天正末年に作成された毛利氏「八箇国御時代分限帳」には「西条四日市目代」についての記載があり、この時期、毛利氏が市目代をおいて西条四日市を直轄支配していたことが分かる。市目代の設定には領国経済の掌握という目的があったといわれるが、同時に幹線交通網の整備という交通政策的側面も指摘されている。