糸賀 宣棟
いとが のりむね
戦国期の厳島神主家の被官。糸賀藤棟の弟。平左衛門尉。商人的な性格をもって廿日市の流通課税徴収などにあたった。
大内氏との戦い
大永四年(1524)、厳島神主・友田興藤に従って大内氏と戦った。『棚守房顕覚書』にその際高名をあげた者として「絲賀中務丞、舎弟平左衛門尉」がみえる。友田興藤からも「勝屋」を討ち取ったことで「糸河平左衛門尉」に感状が出されている。
廿日市での「浮口」徴収
大永五年(1525)四月、宣棟は友田興藤から「廿日市浮口改之事」の収納について、以前のように「馳走」することを命じられている。「浮口」とは廿日市の港に出入りする商品に対する課税とみられている。後年、桂広繁が毛利輝元から安堵された廿日市の「河口」と同様とみられる。宣棟が安芸西部経済の中心である廿日市において流通課税を徴収し、神主家の財政を支える重要な立場にあったことがうかがえる。
商人的な性格
天文二十三年(1554)に毛利氏が大内氏(陶氏)に叛いた際には早い段階で毛利方についたらしく、同年六月、毛利氏から二十貫文の給地と十三間口廿日市居屋敷、四間口の厳島有浦屋形仮屋を給与されている。有浦は厳島の商業区にあたり、先述の廿日市での「浮口」徴収も考えると、宣棟は廿日市と厳島に拠点を持つ商人的な性格も備えていたと推定される。
石見国との関係
また宣棟は、年未詳で毛利隆元から石見の国人・吉見広頼への見舞いを命じられている。これは広頼との個人的な関係を前提にしているとみられ、宣棟が石見方面でも何らかの経済活動を行っていた可能性を示している。