上関村上氏
かみのせきむらかみし
瀬戸内海西部の要衝、周防上関を拠点とした海賊衆。 能島村上氏ら三島村上氏と関わりを持つ一族とみられる。
史料上の初見
「中国九州御祓賦帳」の享禄五年(1532)の項によれば、当時上関に「上関村上殿」と「同村上弥三殿」なるものがいた。これが上関と村上氏との関わりを示す初見史料とされる。
村上諸氏との関わり
能島村上氏の系図によると、同氏の祖義顕の子の義有の系統が上関に在城したとある。永禄年間には当主村上武吉が上関に在城していたこともある。
一方で来島村上氏も上関にかかわりをもっていた。弘治二年(1556)とみられる年、毛利元就は乃美宗勝に対し、来島へ出向いて「上関城衆」の動きについて交渉するよう指示している。元亀二年(1571)頃には来島衆が水軍を上関に送って在番の任にあたらせていることが史料にみえる。
村上武満
上関の村上氏の活動が史料上で確認できるのは16世紀後半、村上武満が上関城に在城してからとなる。武満は上関で通行船舶から関役を徴収するとともに、自ら水軍を率いて毛利方水軍の一翼を担って活躍した。