硫黄(薩摩)
いおう
薩摩国、特に同国河辺郡硫黄島において産出された硫黄。中世、朝鮮や中国にも大量に輸出された。 中世、主に黒色火薬の原料として用いられたとみられる。
硫黄の採掘・流通のはじまり
鎌倉期頃成立の『源平盛衰記』巻十二、有王俊寛問答の事の条に、硫黄島における硫黄の採掘と商人による買付けなどが確認できる。
朝鮮国との貿易品
朝鮮の申叔舟が1471年に完成させた『海東諸国記』にも「薩摩州 産硫黄」とある。15世紀、朝鮮には島津氏や伊集院氏が三千斤から五千斤程度の硫黄を進貢して正布などを得ており、朝鮮でも薩摩が硫黄の産出地であるという認識があったものと思われる。
遣明船の積荷
また硫黄は日明貿易においても日本側の主要商品であったが、この多くは島津氏の調達によるものだった。例えば永享四年(1432)の遣明船派遣では、二十万斤の硫黄が幕府から島津氏に命じられて調達された。宝徳三年(1451)の派遣の際は、前年十月に幕府から天龍寺船のみの硫黄調達が島津貴久に命じられ、翌年八月に平戸停泊中の遣明船へ薩摩船が硫黄を搬入している。「大乗院日記目録」によれば天龍寺船三隻の硫黄の総計は九万四千斤に達したという。
坊津で積み込まれる
その後も応仁二年(1468)の遣明船舶載の硫黄四万斤が大友氏と島津氏によって調達され、門司や博多、赤間関、平戸、奈留などで積み込まれた。最後の遣明船となる大内氏派遣の天文十六年(1547)度遣明船では坊津で硫黄一万斤が積み込まれている。従来、硫黄島で採掘された硫黄がいったん坊津に集積されて、船運で各地に運ばれていたことがうかがえる。