奈留
なる
肥前国五島列島の一つ・奈留島の港町。 平安期以来、日本の対中国貿易の最前線となった。
中国への中継港
承和九年(842)、入唐を目指す恵運は、五月に博多を出航し、奈留浦に寄港。船主の唐商・李処人はここで船を破棄して新船を建造し、三ヶ月後、恵運らは出帆して六日後に温州に到着した。このことから、当時既に奈留が造船機能を備えた、日唐航路の重要な中継港であったとが窺える。
遣明船の最前線基地
室町期の日明貿易においても、奈留は日本側最後の寄港地として遣明船の発着する最前線基地となった。最大規模となった第十次遣明船団は、享徳二年(1453)三月十九日に奈留に入り、風待ちをした後、三月三十日に奈留を発って四月十日に明に到着した。これ以後の遣明船も奈留で風待ちをして明に向けて出航している。
『戊子入明記』によれば、応仁二年(1468)に入明した第十一次遣明船では、硫黄四万斤が島津氏、大友氏によって調達さた。この内の三千斤は奈留の海安寺で積み込まれており、奈留が日本商品の集積・積込港であったことがうかがえる。また天文八年(1539)や天文十六年の遣明船では、それぞれ奈留大明神で航海安全の祈祷や能の奉納が行われている。
海上勢力、奈留氏
寛正六年(1465)六月、幕府は遣明船の警護を各地の勢力に命じているが、その中に奈留島の領主・奈留氏もみえる。この奈留氏は朝鮮との貿易にも関わっており、1474年、奈留繁が朝鮮人漂流者五名を送還し、朝鮮から図書(毎年一、二船を公式に派遣できる)を獲得していることが『成宗実録』にみえる。