田島
たしま
備後国沼隈半島のすぐ南に浮かぶ田島の西岸、横島との海峡部に位置する港町。中世、海賊衆・因島村上氏の拠点の一つとまった。また塩などの周辺物資の運搬を担う水運基地として栄えた。
因島村上氏の進出
田島への因島村上氏の進出は、正長元年(1428)、村上吉資が備後守護・山名時煕から多島(田島)地頭職を得たことに始まる。田島に進出した同氏は天神山城に拠ったというが、その詳細は必ずしも明らかではない。
因島村上氏の田島進出の背景には、田島が周辺物資の運搬を担う多くの船の所属する水運基地であったことがあるとみられる。
室町期の田島の海運
文安二年(1445)における兵庫北関の関税台帳『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年の田島船の入港は十三回を数える。田島船の運搬品のほとんどは備後塩。総計で4627石もの備後塩を筆頭に榑や米、マメ、小麦、赤イワシなどを運んでいる。また田島船の内、左衛門九郎や四郎左衛門、掃部三郎をそれぞれ船頭とする船は、三百五十石以上の積載量を持っており、ある程度大型の船も所属していたことも分かる。
田島には海外への渡航も可能な大型船舶が所属していた。応仁二年(1468)の遣明船渡航の記録である「戊子入明記」に記された遣明船候補のリストには、田島の宮丸が挙げられている。この宮丸は七百石の積載量を持っていた。
Photos
神社・寺院
- 常楽院 :19世紀成立の由緒書によると、治承年間(1177〜81)に高倉院によって再興されたという。
- 光音寺:天喜三年(1055)〜康平三年(1060)の間に中興されたという。
- 如意輪寺(奥之坊):治承四年(1180)、高倉院によって現在の地に再建されたという。
人物
- 村上八郎左衛門尉:永正年間の天神山城主(『西備名区』)。
- 村上範和:大永年間の天神山城主(『西備名区』)。
- 村上則宗:天正年間の天神山城主。後に対岸の常石に移住して「田島」を称したという(『西備名区』)。
城郭
その他の関連項目
参考文献
- 林屋辰三郎・編 『兵庫北関入舩納帳』 中央公論美術出版 1981