温科
ぬくしな
中世広島湾頭の港町の一つ。現在の広島県広島市東区温品。付近には旧山陽道が通過し、吉田から深川を経て広島湾に至るルート上にも位置する交通の要衝だった。中世、温科氏の本拠であり、後に毛利氏が進出した。
『芸藩通志』にみる温科
文政八年(1825)に完成した地誌『芸藩通志』から、中世温科の様子をある程度知ることができる。府中村との境にある鶴江山の北側に「船隠」という地名があった。これについて「古の舟入ならんや」と記している。また「金碇」という地名もあり、「東西山塞ぎ、西南の際は入海なりよし、金碇とよぶ地往年鐡碇を堀出せしといふ」としている。温科がかつて海岸線に面し、港であった名残りだろう。
同じく『芸藩通志』の地図には、温品村の西境、中山川西岸に「三日市」の地名があり、中世に遡る市場の跡地と考えられる。温科が海陸の物資集散地であったことがうかがえる。
温科氏の活動
中世温科を本拠としたのが安芸国人・温科氏だった。応永十一年(1404)九月の「安芸国国人一揆契状」(毛利家文書)に温科出羽守親理の名がみえる。明応八年(1499)八月、温科国親が安芸国分郡守護・武田元信に「悪逆」を企てたという(『毛利毛文書』)。毛利弘元や熊谷膳直ら周辺の安芸国人も室町幕府の命令で出陣し、叛乱は鎮圧された。
温科国親はかつて、応仁元年(1467)四月に落成した周防秋穂の八幡宮の社殿再建事業に同宮の神主として深く関わっていた(「八幡宮御造営記録」)。社殿の屋根に葺く曽木(扮板)について、別当坊妙蓮寺俊重が安芸国玖波津の問丸中務を案内として吉和山(広島県廿日市市吉和)に入り、杣人から購入した。山から切り出した曽木は地御前で受け取られ、温科国親が厳島で購入した船で秋穂へと運んだ。曽木が安芸国西部で調達された背景には、材木の購入や運搬船の手配などについて、国親がノウハウを持っていたことが考えられる。広島湾頭の温科と安芸国西部(さらには周防方面)との間に日常的な交流があったことがうかがえる。
温科を通る街道と毛利氏
大永五年(1525)、毛利氏は大内氏から可部、深川、玖村とともに「温科三百貫」を宛行われた(「毛利家文書」)。尼子方から大内方に復帰した報償だった。当時これらの地は大内氏と敵対する安芸武田氏の勢力下にあったが、毛利氏の広島湾頭進出の契機となった。後に温科を含む佐東郡は、毛利元就の直轄領となっている。
温科は、毛利氏の本拠吉田(現在の安芸高田市吉田町)から広島湾沿岸部に抜けるルートの要衝に位置していた。このルートは「中郡(なかごおり)道」と呼ばれ、吉田から向原、井原、狩留家、深川、温科を経由して広島湾頭へと至る。毛利輝元は広島城築城と併せて、道の整備を二宮就辰に行わせている。天正十七年(1589)二月には「深川・ぬくしなミちの事」について指示をしており、深川から峠を越えて温科へと至る道路の整備も行われていたことが分かる。温科から西には、中山から大内越峠を越えて尾長から広島城下に入るルートがあった。
Photos
神社・寺院
- 金碇明神
- 清水山神社
- 岩谷観音
- 長伝寺:寛政年間の『温品記』によれば、温科氏の菩提寺であったという。江戸期には廃寺になっている。
- 金剛寺
- 安養寺
人物
- 温科親理:応永十一年(1404)九月の「安芸国国人一揆契状」(毛利家文書)に温科出羽守親理の名がみえる。
- 温科国親:安芸武田氏被官。明応八年(1499)に滅ぼされた。
- 温科遠江守:弘治二年(1556)十月、大内義長が白井賢胤に温科遠江守跡の阿南郡中山七十五貫文を与えようとしている。
- 僧倫:臨済宗の天隠龍沢の詩集「黙雲藁」にみえる。文明十三年(1481)、「安芸温科郷」に檀越が有り、庵を結んでいたという。
商品
城郭
- 永町山城
- 鶴江城
その他の関連項目
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会、竹内理三 編 『角川日本地名大辞典 34 広島県』 角川書店 1987
- 秋穂町史編集委員会 編 『秋穂町史』 1982
- 岸田裕之「毛利元就直轄領佐東の研究」(『大名領国の経済構造』 岩波書店 2001)