仁尾
にお
後背の七宝山、前面の大蔦(津多)島によって風や潮から守られた良港を持ち、中世、賀茂社神人らの海上交易の拠点として栄えた港町。また讃岐守護・細川氏の守護御料所(直轄地)として西讃の軍事上の要衝でもあった。
文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』によれば、この年、延べ三艘の「丹穂」(仁尾)船籍の船が、塩や米、赤米、マメ、、赤鰯など周辺地域の産物を積載して兵庫北関を通関している。この内の二艘は積載量が三百石以上であり、仁尾を拠点に比較的大型の船が運航していることが分かる。
仁尾の水運に大きく関わったのが賀茂社神人であり、応永二十七年(1420)十月などに守護・細川氏の兵船御用をつとめるなどの海上活動を展開している。また応永三十二年(1425)に仁尾惣浦中綿売買手形を発給していることから、仁尾に綿座が存在していたことが分かり、仁尾が流通・経済の拠点となっていることが窺える。
仁尾の支配者は上述の守護・細川氏であり、応永末年に仁尾を守護御料所として、代官・香西氏を派遣している。細川・香西氏支配化の仁尾の状況について、嘉吉二年(1442)六月日付の「仁尾浦神人等目安案」では、「地下家数」について五、六百ばかりとしており、仁尾が多数の人口を抱える発展した都市であったことを示している。
一方で香西氏が仁尾浦住人に重い兵粮銭、徳銭を賦課し、香川氏に命じられて仕立てた船二艘と船頭を拘留するという非法を行ったとして訴えられており、大規模な住民の逃散も発生している。