六浦・金沢
むつら・かねさわ
内海(現・東京湾)に向かう天然の良港・平潟湾に面し、仁治元年(1240)に朝比奈切通が開削されて以後、関東の中心・鎌倉の外港を担って栄えた港町。
鎌倉期、金沢に称名寺が建立されるなど都市化が進む。13世紀末に「かはらけ」を積んだ船が入港し、14世紀初めには称名寺金堂の修造のための釘や鎹(かすがい)が同寺の門前の町屋で購入され、熊野檜皮が六浦に近接した野島に着岸している。これらのことからも六浦が対岸の房総や太平洋と結びつく港であると同時に、職人らが居住して地域の生産拠点、生活物資供給拠点も担っていたことが推定される。
鎌倉幕府滅亡後も、六浦には称名寺経営を支えた有徳人・荒居妙法らがおり、また同寺の年貢輸送に関して、問の存在がみられ、永享十一年(1439)には赤岩郷からの輸送で六浦六郎に「替銭」の「禮儀」が支払われていることから、年貢を換金する金融業者の存在も確認できる。また応永二十九年(1422)、六浦の関の関料が称名寺修造料に充てられており、六浦が多くの船が入港し、物資が集散される発展した港であったことが窺われる。
戦国期、六浦は品河などに内海の中心港の地位を譲っていたが、生産拠点として性格は残しており、金沢の鍛冶や六浦の番匠が軍船修造の為、北条氏に動員されて浦賀や伊東に派遣されている。六浦・金沢は内海の造船基地でもあったとみられ、しばしば房総の里見氏方の海賊が金沢に侵入して「金沢船」の奪取を試みている。