東海船(伊勢東海船)

とうかいせん

 戦国期、伊勢海と東海沿岸、内海(江戸湾)で運航が確認される乗員六人の中型船。

  永禄四年(1561)九月、相模北条氏の重臣・北条綱成が内海に面する羽田浦々の船持中に対し、十五日間の就役を命じた書状の中に「其地船東海三艘、舟方一艘六人乗積十八人」とあり、羽田浦の船持が「東海」という型式の船で就役し、その「東海」の乗員は一艘あたり六人であったことわかる。

 永禄十一年(1568)には北条氏が、「伊勢東海船」への乗組を割り当てられた土肥、金沢、国府津、網代の諸郷から各一人の「不参者」が出たことについて罰金を賦課しており、「東海」が北条氏管下の水軍にも組み込まれていたことが窺える。

  天正十七年(1589)三月、北条氏は新規購入の「東海船」を伊豆国西浦から東岸の伊東に浦伝いに回漕させている。これにより、「東海」が伊豆西岸以西で建造された船である可能性、そして多くの寄港地を経由しながら浦伝いに航行する船であることが考えられている。

 また永禄八年(1565)の伊勢・大湊への入港記録である『船々聚銭帳』にも「のま舟四郎太郎小東海」、「すか嶋小東海」がみえ、「小東海」と呼ばれる船が伊勢海においても運航していたことがわかる。

 つまり、「東海」級の中型船は、広く伊勢から東海、関東の各地で運航していた可能性が高く、この「東海」級船舶の活動が大型廻船とともに地域間のネットワークを形成していたものと思われる。

 

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 永原慶二 「伊勢・紀伊の海賊商人と戦国大名」( 『戦国期の政治経済構造』) 岩波書店 1997