八浜
はちはま
中世は独立した島嶼であった備前国児島の北岸に位置する港町。旭川などを通じて運ばれる美作や備前の産品の輸送基地を担って栄えた。
八浜船の水運
文安二年(1445)における関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年、兵庫北関へ八浜船籍の船が計七回、入港していることが確認できる。積荷は海老や大麦、米、そして児島で製塩された小嶋塩。八浜船が周辺地域の産品の輸送を担っていたことがうかがえる。
しかし八浜船の規模は、十月十九日に入港した八郎太郎を船頭とする船が小嶋塩百六十石を積載したのが最大であり、基本的には小規模な船が中心であったようである。
毛利氏による経済封鎖
戦国後期、毛利氏と織田氏の抗争が激化する中で、天正七年(1579)に備前の宇喜多氏が毛利方から織田方に転向する。翌年二月以降、毛利氏は周防国玖珂郡の警固衆・高井元任らに対し、九州へ商買のために下った備前児島の八浜の有徳船や姫路の商船について、周辺の浦にいれば抑留して注進するよう命じている。
当時、八浜船は宇喜多氏、姫路船は織田氏部将・羽柴秀吉の支配下にあり、九州への下向は硝石などの戦時物資の購入する為だったと推定される。これを阻むべく毛利氏は船の抑留を図ったと思われる。
八浜合戦
八浜は織田方の最前線にあって、宇喜多氏の重要な策源地となった。天正九年(1581)にはこの八浜をめぐって毛利軍と宇喜田軍が激突する「八浜合戦」が勃発している。