賀茂神社(賀茂大明神)

かも じんじゃ

 の南側の低い丘陵上に鎮座する賀茂神社。平安期、室が京都・賀茂別雷神社(上賀茂神社)の御厨となった際、勧請されて建立された。

賀茂神社社殿。流造(ながれつくり)、桧皮葺(ひわだぶき)の五つの社殿が並び、本殿の前に唐門があり、回廊がとりかこむ。
賀茂神社社殿。流造(ながれつくり)、桧皮葺(ひわだぶき)の五つの社殿が並ぶ。

 治承四年(1180)三月、高倉上皇の厳島参詣に同行した土御門通親は、「風雨のわづらひなどの御祈り」を行ったと『高倉院厳島御幸記』に記しており、既にこの頃には社殿が建立され、航海安全の神として信仰を集めていたことが分かる。

  また 上賀茂神社は仁尾などでも、現地の賀茂神社を通じて水運や漁撈、製塩などに携わる業者を神人、供祭人として掌握しており、室の賀茂神社もそのような海民掌握の拠点を担ったものと思われる。

 康暦一年(1389)、厳島へ参詣する足利義満が寄港した際、賀茂神社に室を安堵しており、少なくともこの頃までは、室を掌握していたものと思われるが、戦国期にかけて赤松氏、山名氏、浦上氏が室の争奪戦を繰り広げており、次第にその掌握度も低下していったものと思われる。

 戦国末期(織豊期)、天正九年(1581)、小西行長が室の支配者となると、室はキリシタン化が急速に進み、そのため賀茂神社は存亡の危機を迎える。天正十五年(1587)、室に寄港した薩摩の島津義久は、賀茂明神に参拝しているが、そこでキリシタン勢力により、賀茂神社の社殿が「悉く廃壊」しているのを目の当たりにしている。

兵庫県たつの市御津町室津

 

Photos

賀茂神社社殿② 賀茂神社の表門。別名で四脚門といい、文字通り四本の柱に支えられており、その上段に龍の彫刻が施されている。 賀茂社の鳥居。

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 山内譲 『中世瀬戸内の旅人たち』 吉川弘文館 2004