山本 房勝
やまもと ふさかつ
安芸国呉浦を本拠とする小領主連合・呉衆を構成する山本氏の当主。弾正忠、玄蕃允、甲斐守。近世編纂の『芸藩通志』は、呉和庄村の杉迫城を「山本甲斐」の居城と伝えている。房勝の「房」は結びつきの強い大内氏重臣・陶氏からの偏諱とみられる。
天文年間の活動
天文年間、大内氏は能島村上氏ら敵対する海賊衆への攻撃を繰り返した。天文十二年(1543)十二月廿三日、「与州表」で敵船一艘を切り取って頸を討ち取り、左手に矢傷を負ったことについて大内義隆から感状を得ている。この戦功は冷泉隆豊によって注進されており、房勝は隆豊の指揮下で戦っていたことがうかがえる。
その後、天文二十四年(1555)七月五日、大内義長から房勝の子賢勝に跡目を相続する許可が出されている。既に天文二十二年三月に賢勝への譲状が大内氏によって裁許されており、この頃には家督を子に譲っていたとみられる。
房勝の所領
天文十四年(1545)七月、房勝は大内義隆から所領を安堵されている。この時の安堵状によれば、房勝は呉保の二十一貫余をはじめとして安芸国東西条広浦(現在の呉市広)や周防国玖珂郡柳井、豊前国中津郡貞末などに知行地を持っていた。これらは皆、海辺の所領であり、山本氏が平時はこれらの拠点を結んでの水運に従事していた可能性をうかがわせる。