糸賀 惟秀
いとが これひで
戦国期、厳島神主家の被官(神領衆)として活躍した糸賀宣棟の嫡子。内蔵助、淡路守。父とともに廿日市を拠点に経済活動を行ったと推定される。
毛利氏に仕える
弘治三年(1557)二月、毛利隆元から加冠を受けて惟秀を名乗る。年未詳十一月、毛利輝元が桜尾城在番の桂広繁に対し、中丸、新里、糸賀の三名を従前通り、広繁の一所衆とすることを認めた。惟秀ら旧神領衆が桂広繁の麾下にあったことが分かる。
石見国人との関わり
年未詳二月、遠国に出征していた石見益田の国人・益田藤兼は、「其表」(石見か)に滞在していた惟秀に宛てて書状を送っており、自分の「留守」が心もとないので、惟秀の「入魂」(懇意)を期待している旨を記している。この書状から惟秀と益田藤兼は非常に親密な関係であったことがうかがえる。
両者の関係の背景には、惟秀ら糸賀氏の石見方面での経済活動があったとみられている。惟秀の父・宣棟も毛利隆元から石見で尼子氏と戦っていた在陣衆への使いや、石見津和野の国人・吉見広頼への見舞いを命じられており、石見方面での活動や石見国人との親密な関係がうかがえる。
廿日市には紙座があった。石見で生産された紙も山間ルートを通じて廿日市の市場に出回っていたと推定されており、惟秀らも紙の流通に関わった可能性があるという。
淡路守に任官
その後、『閥閲録』所収の史料には、慶長十六年(1611)四月、宗瑞(毛利輝元)を通じて「淡路守」の官途を受領していることがみえる。