生口 隆平
いくち たかひら
戦国期、天文年間頃の海賊衆・生口氏の当主。生口島向上寺の梵鐘銘にその名がみえる。
瀬戸田町衆と梵鐘の寄進
銘文には「檀越 隆平」の名が刻まれ、次いで 施主の松月道玉、心渓道信、花屋道薫・道春や大工・橘是信らの名がみえる。また「仏通禅寺住持記」の天文二十三年の項には「乙卯(天文二十四年)、此年向上寺鐘町衆寄附也」ともある。この梵鐘は、海運で栄えた瀬戸田の町衆らが資金を出し合い、生口氏当主の隆平や花屋道薫ら瀬戸田の有力商人を中心として造られ、向上寺に寄進されたことがわかる。時に銘文には「天文廿四年(1555)初夏十八日」と刻まれている。
後の慶長四年(1599)、鐘が存続の危機に陥った際、瀬戸田町衆や生口氏による保存運動が展開された。この梵鐘が瀬戸田の住人たちにとっていかに重要なものであったかが窺える。
天文二十三年の出来事
ただ、鐘が寄進される前年の天文二十三年(1554)、小早川隆景が岩城屋を通じて生口島から何らかの勢力を退去させる調略を講じている。天文二十三年、二十四年は毛利氏や小早川氏が大内氏(陶氏)との決戦を控えて軍事行動を繰り返している時期であり、生口島に反毛利方勢力が侵入した可能性がある。生口島の領主である生口隆平は当然この事件と無関係であったとは思われないが、当時の隆平の行動・立場については史料を欠いている。