陶氏

すえし

 周防山口を本拠とした西国大名・大内氏の庶流。 周防国佐波郡右田村を本拠とした右田氏のうち、弘賢が吉敷郡陶村に住んで陶を名字としたことにはじまる。弘賢の子、弘政が周防国都濃郡富田保に移って居館を構え、以後は富田を本拠とした。

周防富田の陶氏居館跡を示す碑。
周防富田の陶氏居館跡を示す碑。

大内氏の重臣

 その後は大内家中で台頭。周防守護代をはじめ、大内氏が守護をつとめる各国の守護代に任じられるなど、大内家中筆頭格の重臣となった。室町期、弘護の急死後、一時家中が混乱するが、弘護三男の興房が家督を継ぐと立ち直り、再び大内氏の中心として活躍した。

大寧寺の変と厳島合戦

 興房の子隆房の代で大内氏当主の義隆と対立。隆房は天文二十年(1551)に義隆を大寧寺で自害させた。その後は大内氏の実権を握ったが、天文二十四年(1555)に毛利氏との厳島合戦で隆房が大敗して討死。後に隆房嫡男の長房も居城の若山城で杉重輔に討たれ、陶氏は滅亡した。

陶氏の水軍

 陶氏の本拠、富田は兵庫にも物資を輸送する船舶の基地であり、遣明船の候補にも挙げられた大型船「富田弥増丸」も所属する水運の拠点だった。能島村上氏の記録『武家万代記』には、天文二十年(1551)冬、公方への進上米二千石を運ぶ陶氏の輸送船団が、能島村上氏の支配する上関を強行突破した事件が記されており、陶氏が自前の水運力を持っていたことがうかがえる。また興房、隆房の代には安芸沿岸に拠る白井房胤山本房勝ら水軍衆に偏諱を与えるなど関係性を強めている。

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当主

  • 陶弘長
  • 陶盛政
  • 陶弘正
  • 陶弘房:弘正の弟。兄の死後、家督を継いだが、応仁二年(1468)に京都相国寺の戦いで討死した。
  • 陶弘護:弘房の子。山口において吉見信頼に殺害された。
  • 陶武護:弘護の長男。
  • 陶興明:弘護の次男。
  • 陶興房:弘護の三男。長兄の遁世、次兄の討死により家督を相続した。
  • 陶隆房:興房の次男。後に晴賢を名乗る。大寧寺の変にて大内義隆を滅ぼしたが、毛利氏に厳島で討たれた。
  • 陶長房:隆房の子。

一門

  • 陶(右田)弘詮:陶弘房の次男。同族の右田氏を継いだ。兄弘護の急死後、陶氏に復して同氏を後見した。
  • 陶隆康:陶弘詮の子。天文二十年(1551)に同族の隆房が起こした反乱の際、大内義隆方に属し討死した。
  • 陶隆弘:隆康の子。天文二十年(1551)、山口の法泉寺にて父と共に討死した。
  • 陶興昌:陶興房の長男。
  • 陶貞明:陶隆房の次男。兄長房とともに杉重輔と戦うが敗死した。

家臣団

  • 宮川房長

居館・城郭

  • 陶氏館
  • 七尾城
  • 上野城
  • 富田若山城