陶 興明

すえ おきあき

 15世紀末の陶氏当主。陶弘護の次男。武護の弟、興房の兄。陶氏と関連の深い龍豊寺の過去帳によれば、明応四年(1495)二月十三日に十九歳で亡くなった。

周南市大字下上横矢の海印寺に安置されている興明供養の宝篋印塔(画面真ん中)。
周南市大字下上横矢の海印寺に安置されている興明供養の宝篋印塔(画面真ん中)。

父の急死、兄の遁世

 龍豊寺過去帳記載の死去時の年齢から逆算すると、興明は文明九年(1477)に誕生したことになる。興明がまだ幼い頃、文明十四年(1482)五月に父弘護が周防山口で石見国人吉見信頼に刺殺される。父の跡は兄の武護が継いだが、その兄も延徳四年(1492)七月に突然遁世(世を捨てて出家)してしまう※1。これにより、興明は陶氏の家督を継ぐことになった。

当主としての活動

 兄の遁世の翌年とみられる年の四月、興明は石見益田の国人益田氏に太刀拝領の礼状を送っている。当時の益田氏当主は宗兼とみられ、興明の家督相続を祝して太刀を贈っていたとみられる。明応三年(1494)には日面寺や満願寺などの寺院に寺領安堵の旨を伝えていることが確認される。

兄に殺される

 小規晴富の日記『晴富宿袮記』によれば、明応四年(1495)二月二十三日、兄武護(出家して宗景と号していた)が、陶氏の本拠である周防富田に舞い戻った。興明は居館を攻められ、そこで兄に討たれたという。

興明死後

 興明の死後、家督はその弟の興房が継いだ。興明を討った武護は山口の姫山で討死したとも、紀伊の高野山に逃れたともいわれる。興明の死を悼んだ遺族は彼の供養塔を造立。陶弘護室の益田氏が開基となった龍豊寺と、興明が討死した富田の横矢の地にそれぞれ宝篋印塔が残されている。

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関連人物

  • 陶弘護:興明の父。興明が幼い時に急死した。
  • 陶武護:興明の兄。
  • 陶興房:興明の弟。興明の跡を継いだ。
  • 大内義興:大内政弘の子。興明の「興」は義興の偏諱とみられる。
  • 内藤弘矩:興明が討たれた15日後に義興らに誅殺された。

その他の関連項目

  • 陶氏居館

脚注

  • ※1:蔭凉軒日録』延徳四年七月二日条に「早旦顕等来云、大内被官陶遁世在天王寺云々」とある。

参考文献

  • 播磨定男 『山口県の歴史と文化』 大学教育出版 2002