太平布
たいへいふ
少なくとも15世紀後半頃には宮古、八重山諸島において織られた芋布。「太平」の名は太平山(宮古の別称)によるとされる。 琉球で着衣などに利用されたほか、薩摩などにも移出された。
済州島人が見た八重山の布
『李朝実録』によれば、1479年に八重山に漂着した朝鮮・済州島人が、現地の人間が芋から布を織っていたこと、沖縄本島では庶人が皆「白芋衣」を着ていたことを報告している。近世八重山での布生産を鑑みれば、この芋布が初期の太平布であったとみられる。
琉球から島津氏への贈り物
「太平布」の史料上の初見は天正五年(1577)八月で、島津氏を訪れた琉球使者の持参した品物の目録に「太平布百端」がみえる。その他、『上井覚兼日記』にも天正十三年(1585)五月八日条に琉球国王が島津氏に「太平布百端」を贈っていることがみえ、戦国後期、琉球から薩摩に太平布が移出されていたことがうかがえる。
太平布の区分
また天正六年(1578)の琉球三司が鹿児島奉行に宛てた書状に「上布四十端」がみえる。『琉球往来』によれば、薩摩の琉球侵入以前、王府が宮古に上布、下布、麻芋等を納めさせており、太平布には上布や下布といった品質区分があったことも分かる。
慶長十六年(1611)、薩摩は琉球に「上布六千端、下布壱万端、から芋千三百斤」などの膨大な量の貢納を要求しており、当時の琉球における太平布の生産規模を窺うことができる。中でも上布は高品質であり、近世には「薩摩上布」として大坂・江戸の市場で高い評価を受けている。