紙(石見)

かみ

 中世、石見国西部において製造され、贈物などにも用いられた紙。近世、石見国西部は紙の一大産地として知られた。安政三年(1856)の京都紙商人藤屋清右衛門書写『諸蔵紙俵印鑑控』には吉賀蔵(津和野藩)と石州蔵(浜田藩)が見えるという。

貴顕への贈り物

  『宣胤卿記』永正十四年(1517)七月二十三日条に石見国人・福光将監兼修が石見の紙二束を持参していることがみえる。また『兼右卿記』元亀三年(1571)二月二十七日条には、厳島社の遷宮を行うため京都から安芸国に下向した吉田兼右に、津和野の中領祇園社官・桑原秀安が銭百疋とともに紙二束を持参している。16世紀、石見の紙は京都からの客人に対し、贈答品としても用いられる品質を備えていたことがうかがえる。また近世における紙生産の状況が戦国期にまで遡ることもわかる。

生産地域

  先述の「吉賀蔵」にみえる吉賀は石見の国境地域である鹿足郡六日市町、柿木村付近の地域呼称。津和野の桑原秀安が紙を贈物としていることから、中世、津和野から吉賀一帯が紙の生産地であったことが推定される。

安芸国西部への移出

 上記の推定生産地域は山間部を抜けて安芸国西部へ至る交通上の要衝であり、廿日市糸賀宣棟のように津和野方面に往来する者もいた。戦国期、廿日市には紙座があったことから、石見の紙の一部がこの山間ルートを通じて安芸国西部の市場へと供給されていた可能性も指摘されている。

市場・積出港

参考文献

  • 秋山伸隆 「室町・戦国期における安芸・石見交通」 (『史学研究』218 1997)