宇都宮

うつのみや

 下野国一宮宇都宮明神の門前町。神宮御家人・宇都宮氏の本拠。また鎌倉と奥州を結ぶ街道・奥大道が南北に通過する交通の要衝であり、宿場町も発展した。

鎌倉期の宇都宮

 弘安六年(1283)に成立した宇都宮氏の家法「宇都宮家式条」によれば、当時の宇都宮は、宇都宮明神をはじめとする寺社や宇都宮一族の居館のほか、「宮中」「町屋」「宿河原」から構成されていた。

  「宮中」は宇都宮氏や神官たちの屋敷が立ちならぶ場所とみられる。後年の天正十三年(1585)、北条氏の軍勢が「宮中」に乱入し、「大明神の御殿を初め、楼門、廻廊、日光堂、大御堂、小寺山、蓬莱、そのほか興禅寺、東勝寺、一処も残らずことごとく焼き払う」(『今宮祭祀録』)とある。

 「宿河原」は「宿・上河原・中河原・小田橋」からなり、宇都宮をとおる奥大道に沿って宿々が発達した状況が推定されている。この内の「宿」は、室町期の史料にみえる「むかい宿」や「宿之郷」に比定される。

奥大道の要衝

 「宇都宮家式条」が定められた鎌倉後期には、既に奥大道の物流も活発であった。「宇都宮家式条」の中に、「駒牽」が着宮する期日が不安定で、当日に人夫を催促してもなかなか集まらずに不都合が生じているので、以後は宇都宮の宿々の当番制にすると定める条文がある。規模の大きい「駒牽」(隊商とみられる)が頻繁に宇都宮に来ていたことがうかがえる。

  平安後期、平泉の奥州藤原氏は京都に金や鷲羽水豹皮、糠部の馬などを送っている。それらを運んだ「夫・課駄」は「山道海道の間、片時も絶えることなし」(『吾妻鑑』(文治五年九月十七日条)とあり、北方の産物が(陸路の場合は)奥大道を通って京都・鎌倉に運ばれていたとみられる。宇都宮はその中継基地として重要な役割を果たしていたのだろう。

宇都宮の都市防衛施設

 宇都宮の都市防衛施設も南北朝期から確認できる。その一つが宇都宮の南口に位置した「贄木城」。応安元年(1368)八月、奥大道を北上したとみられる鎌倉府の軍勢が宇都宮に侵攻し、二十九日に「贄木城」で合戦。翌月六日には宇都宮城を攻撃している(「市河文書」)。

  戦国期の天文年間にも、小山高朝が宇都宮を攻めた際に、「宮中、宿際、贄木ことごとく打ち散らし候。宇都宮を生城ばかりになし候」と書状で述べている。宇都宮城攻撃には、宇都宮入口の「贄木城」の突破が必要であったことは、戦国期も同じであった。

 なお、上記に「宿際」とあることから、小山軍の攻撃は宿本体には及ばなかったことがうかがえる。結城晴朝が16世紀半ばに宇都宮を攻めた際の書状にも「昨日は、宇都宮宿近辺迄を黒土となし候。」とある。このことから、宇都宮の宿は、堀や土塁で守られていたことが推定されている。東国の諸都市には、防御施設で守られた「宿城」が共通して存在。城郭の防御機構の一つとなっている。

戦国期の宇都宮

 戦国期の宇都宮は、小山氏や結城氏、後には北条氏の侵攻にさらされるなど、甚大な戦禍を被ったが、一方で都市として大きく発展もした。

 高野山清浄心院に残る「下野国過去帳」には、中世下野の多くの人々の没年と法名、居住地が記されている。ここから戦国末期の宇都宮の地名として抽出されるのは「西小路」、「歌橋」、「上コウジ(小路)」、「寺コウジ(小路)」など。この時期の宇都宮は、多くの小路が縦横に走る町場であったことが分かる。

 文録二年(1593)、宇都宮を訪れた佐竹氏家臣・大和田重清は、宇都宮の「町」で絹、帯、足袋の買い物をしたほか、「今小路」で金の見物をしている(「大和田重清日記」)。「今小路」には金細工職人が集住していたとみられる。

近世都市への移行

 宇都宮氏は豊臣政権下で大名となり、宇都宮の城下町としての整備を進めていった。その後、宇都宮氏は没落するが、宇都宮の整備は蒲生秀行、本田正純らによって引き続き行われ、近世の下野国において最大の城下町となる。戦国末期にみられた宇都宮の地名のいくつかは近世にも引き継がれており、近世城下町としての宇都宮が、戦国期の都市プランにある程度規定されていたことをうかがわせている。

神社・寺院

  • 宇都宮明神

人物

商品

城郭

  • 宇都宮城

その他の関連項目

参考文献

  • 江田郁夫「中世の宇都宮」(『中世東国の街道と武士団』) 岩田書院 2010