宇須岸
うすけし
函館の旧名であり、日ノ本(渡島半島東部)の物資の積出港の役割を担っていたと思われる港町。宇須岸を交易港とする現在の函館市地域は、居住環境もよく、蝦夷ヶ島(北海道)における和人居住区の経済的中心地として繁栄した。
近世松前氏のもとで編纂された『新羅之記録』には15世紀中頃の宇須岸の様子が記されており、「宇須岸全盛の時、毎年三回充若州より商船来り、此所の問屋家々を渚汀に掛造りと為して住む。依て、攬を縁の柱に結び繋ぐなり。随岸寺の開山嘉峯和尚は若州の人たり、商船乗りて渡りし時、稚松を鉢に植えて持来たれり」とある。宇須岸の全盛期には小浜、敦賀に代表される若狭国からの商船が定期的に来航し、海岸には問屋が軒を連ねていたのである。
また随岸寺の開山・嘉峯和尚も同じく商船に乗って来航したとしていることから、商人とともに宗教勢力が扶植されていことがうかがえる。
14世紀に成立した『庭訓往来』には、地域特産品として「宇賀昆布」や「夷鮭」が挙げられており、昆布や海産物などの北方産品が主な交易品として宇須岸に集められて取引され、以上のように来航した商船によって畿内方面にも流通したと考えられる。
しかし同時にコシャマインの蜂起がおこるなど地元アイヌ人との摩擦も強まり、永正九年(1512)のショヤコウジ兄弟の蜂起で最終的に宇須岸は荒廃したといわれ、蝦夷地和人経済の中心は上ノ国、松前へと移っていった。
神社・寺院
- 随岸寺
城郭
- 箱館
参考文献
- 村井章介 『海から見た戦国日本』 ちくま新書 1997