津島
つしま
中世、及川と墨俣川の合流点に位置し、水陸交通の要衝として、また津島社(牛頭天王社)の門前町として栄えた港町。
『海道記』の著者は貞応二年(1223)四月、「津嶋渡」を経て尾張国に入ったと記しており、当時、津島が渡し場で、尾張国の西の玄関口であったことが分かる。
大永七年(1527)三月、津島を訪れた連歌師・宗長の旅行記によれば、津島社の鎮座する向島と津島を結ぶ天王橋は三町(約327m)あまりもあり、及川、墨俣川の合流点は「近江の海」(琵琶湖)のようで、橋のたもとには舟十余艘も浮かんでいたという。宗長はここから「河水三里(約12km)ばかり」の桑名へと向かっている。巨大なインフラが整えられ、また桑名へと至る渡航地としても栄える津島の姿をうかがうことができる。
また天文二年(1533)七月、飛鳥井雅綱と山科言継の一行は、桑名から津島に入って勝幡城の織田信秀とともに津島社を「見物」しており、天文十三年(1544)には連歌師・谷宗牧も桑名から「川舟」で津島に入って津島社で興行している。
津島社は古くから尾張国内で強く信仰されており、戦国期には津島を支配する織田弾正忠家の庇護下にあって同家の勢力拡大とともに信仰圏を広げていた。そのため、津島には先述のような各地からの参詣客、見物客も多く訪れ、彼らや各地を巡る同社の御師がもたらす物品もまた津島の繁栄を支えていたと思われる。