忠海(只海)
ただのうみ
大崎上島、大久野島の山陽側対岸に位置する港町。中世、沼田小早川氏の庶家・浦氏の本拠地。瀬戸内海航路の中継港としても栄えた。
瀬戸内海航路の中継港
忠海は瀬戸内海の中継港の一つ。例えば康応元年(1389)、将軍・足利義満の一向は厳島参詣の復路で「たゞのうみの浦」付近の州に舟が乗り上げたため、忠海で潮が満ちるのを待って出船。その後尾道に向かっている(『鹿苑院殿厳島詣記』)。
その後も天正十六年(1588)七月、上洛途上の毛利輝元が休息の為に寄港しており(『輝元公御上洛日記』)、慶長三年(1598)には九州に下向する石田三成が泊まっている(「是斎重鑑覚書」)。
流通の拠点
忠海は内陸からの物資の積出港でもあったとみられる。文明十七年(1485)三月の小早川元平書状によれば、主殿寮領入江保(現在の安芸高田市吉田町)の年貢が忠海で船積みされ、京都に送られている(「壬生家文書」)。
上記のような物資流通を背景としてか、忠海には沼田小早川氏に銭を貸し付ける商人も現れている。文明十九年(1487)八月、 沼田小早川氏が相続を将軍家より安堵された際、将軍家に出す礼銭を各所から調達しているが、その中には忠海二郎右衛門からの三貫文の借銭も含まれていた(「継目安堵御判禮銭以下支配状写」『小早川家文書』)。
忠海には鋳物師も居住していたことが知られる。天文十八年(1549)十一月の弘中隆兼(大内氏家臣)書状に「彼(小早川)一族領分忠海鋳物師公事銭儀」とみえる(「真継文書」)。
浦宗勝の登場
16世紀中ごろ、小早川隆景の重臣・浦(乃美)宗勝は忠海の海岸部に賀儀城を築城。浦宗勝の時代には菩提寺勝運寺をはじめとして浄居寺や明泉寺など忠海の主要な寺院が建立されている。
宗勝の知行により、忠海は毛利(小早川)領国の警固衆の基地ともなった。永禄十一年(1568)十一月、伊予に渡海した毛利軍は鞆、笠岡、尾道、三原、忠海、高崎、竹原などの津々浦々から出船ししている。
厳島神社に寄進する商人たち
「安芸厳島神社廻廊棟札写」※1には16世紀後半頃の厳島社の廻廊造営の檀那の名が記されているが、その中に「只海」の住民として羽白三良左衛門や日向屋新左衛門、中村源右衛門尉、田中孫右衛門尉、竹村源右衛門らの名がみえる。
特に永禄八年(1565)九月に檀那となった日向屋新左衛門は、その名乗りから日向国出身、あるいは同国と商売をした商人とみられる。天文年間の大願寺文書や厳島野坂文書などによれば、当時、堺商人らは室や塩飽の船を雇って日向・薩摩から「唐荷」(輸入品)を仕入れていた。このことから忠海の日向屋もまた日向の産物や唐荷を扱っていたのかもしれない。