須崎(洲崎)
すざき
土佐湾西岸、複雑な入り江で天然の良港となっている須崎湾に臨む港町。中世、荘園・津野荘と外海を繋ぐ物資の集散地として栄えた。城山南麓、東麓の「原」とその南部に形成された砂州上に立地する「洲崎」の二つの集落からなる。
寄進する富裕層
『南路志』にみえる「伊野椙本神社蔵鍔口銘」には「洲崎大善寺大旦那刀祢夜叉丸、文明丁未(1487)五月日、院主快道」とある。文明年間には「洲崎」集落が既に成立しており、「大旦那」となる富裕な人物が住んでいることが分かる。
戦国期の須崎の多様な住人たち
天文五年(1536)霜月三日付の伊勢御師御炊大夫の旦那帳(「津野旦那帳」)からは、当時の須崎に番匠十五名、大工一名、鍛冶九名、ほか鋳物師や結桶、研師、塗師ら多くの工匠が住んでいたことが分かる。特に番匠はその数の多さから、船番匠や材木商も兼ねていたとみられる。その他、魚屋や宿、漁師らがおり、また後年の帳から推定して紺屋、小商人、茶屋らも住んでいた。戦国期の須崎の賑わいと発展を知ることが出来る。
市町での商品流通
また、須崎には常設の市町があったとみられ、「旦那帳」には市目代の父子や市衆の二十五名が挙げられている。この市には周辺地域の物品が集積されていたとみられ、「旦那帳」の注記などから太布、樽、その他金品が荘内各地から須崎へ送付されていることが分かる。さらに「旦那帳」の須崎市分の末尾には「さかいあき人 たるや与五良殿」が太布や弓木で初穂料を納めており、須崎には堺商人も下向してきて商品を購入していたことがうかがえる。