太布(土佐)

たふ

 和紙の原料でもある楮(こうぞ)の皮を加工した繊維で織られた布。土佐では木綿以前の庶民衣料として麻布、紙子とともに普及していたが、戦国期、堺商人や伊勢御師の活動により、かなりの量の太布が畿内方面に移出されていたことが、いくつかの史料により確認できる。

  天文五年(1536)の「津野旦那帳」によれば、この年土佐国津野荘の旦那から伊勢御師・御炊大夫に初穂料、御神楽銭として多くの太布が納められており、数量は実に六百端を越えていた。土佐国全体では相当の量の太布が伊勢に運ばれていたことが推定される。実際、延徳二年(1490)の伊勢宮の門前町・山田には「たふ(太布)の新座」が存在しており、土佐から運ばれた太布が伊勢宮の重要な商品になっていたことがうかがえる。

  また先述の「津野旦那帳」の須崎市分の末尾には「さかいあき人 たるや与五良殿」という人物が太布や弓木で初穂料を納めている。この与五良は「さかいあき人」とあることから堺商人とみられ、堺に持ち帰るべく須崎の市で買い集めた商品の一部を納めたものとみられる。

 本願寺証如が記した『天文日記』の天文五年(1536)四月十七日条には「土佐国より勧進之物千疋、又、田布(太布)五十端来」とあり、当時、土佐の太布が畿内に向けて送られていたことが示されており、その担い手が与五良のような堺商人や本願寺門徒であったと思われる。

市場・積出港

人物

  • たるや与五郎

参考文献

  • 下村效 「戦国期土佐国津野荘民の伊勢参宮と荘頭の港町須崎再考」(『戦国織豊期の社会と文化』 吉川弘文館 1982)