中村
なかむら
土佐国幡多郡の大動脈・四万十川の下流域に位置し、室町・戦国期、土佐西部の戦国大名・土佐一条氏の本拠として栄えた城下町。中村には他にも多くの河川が集中しており、同郡の交通・経済の中心地だった。
一条教房の下向
中村は古くから一条氏の家領・幡多荘の中心にあり、応仁二年(1468)九月、前関白・一条教房が下向して中村御所を構えて以降、土着した土佐一条氏の本拠地となった。
一条氏の繁栄
16世紀、一条氏は朝廷や本願寺などの権門に何度も献金や贈与を行っている。その献金額は平均千疋にものぼり、さらに贈り物には南蛮水指や緞子など舶来品も含まれていた。一条氏と本拠・中村の経済発展がうかがえる。
一条氏の時代、「天文日記」の記事などから、幡多荘や中村には堺商人が往来していたとみられ、舶来品の入手経路の一つに堺商人との取引があったと思われる。
材木の集散地
文明十一年(1479)、四万十川上流から運ばれた材木が「土佐御所」から堺に輸送されている。中村が同河川の物資集積地であり、堺への木材資源の供給地であったことが分かる。また天文五年(1536)四月には幡多郡で材木が切り出され、その後、本願寺の要請で派遣されてきた堺の技術者によって渡唐船が建造され、堺に回航されてもいる。
土佐屈指の都市
『長宗我部地検帳』によれば、16世紀末の中村には多くの町屋に約九十四軒の市屋敷があることが記されている。これは土佐国最大規模であり、都市としての中村の繁栄を知ることができる。