美々津(耳津)

みみつ

 日向国北部を東西に貫流する耳川の河口部に位置する港町。神武東征の出発地としての伝承を持つなど、古くから栄えたとみられる。

九州を代表する湊

  弘治二年(1556)に日本に来航した鄭瞬功の著書「日本一鑑」には、九州諸港の名前として「棒津(坊津)」や「志布志」、「細島」などとともに「耳(美々津)」が挙げられている。当時、美々津が九州を代表する港の一つであったことがうかがえる。

町衆の存在

 戦国後期の島津氏の重臣で宮崎城主であった上井覚兼の記した『上井覚兼日記』によれば、天正十三年(1585)三月十一日条で「美々津町」の者が、同年八月廿三日条で美々津の「町衆」がそれぞれ酒を持って覚兼をたずねている。美々津が戦国期には町衆の存在する発展した港町となっていたことがうかがえる。

畿内との航路

  16世紀中頃、堺商人が日向・薩摩から運ぶ「唐荷」(輸入品)について、能島村上氏による「唐荷役」徴収が問題となっている。当時、日向には堺商人や彼らが雇う塩飽の船が来航していたことが分かる。『日記』の天正十二年(1584)五月廿一日条では、肝付兼寛が上洛のために美々津、細嶋から出船しようとしており、美々津が海上交通の要衝であるとともに、畿内・日向間を往来する商船の入港地の一つであった可能性を示している。

水運業者の活動

 美々津が町場を形成して繁栄した背景には、以上のような物資流通の拠点としての性格があったとみられる。『日記』によれば、島津氏の豊後侵攻を控えて美々津で兵船や水主が徴発されており、美々津に多くの船が所属していたことが分かる。天正十四年(1586)九月十七日条では(上方から)下ってきた美々津の者が伝える「四国兵船豊後へ押渡候」という緊迫の情報が覚兼にもたらされおり、美々津の者の広域の活動も窺うことができる。

参考文献

  • 宮崎県史通史編 中世』 1998
  • 東京大学史料編纂所・編 『大日本古記録 上井覚兼日記 中』 岩波書店 1955 (その他、上、下巻)