柏島

かしわじま

 宿毛湾の南、大月半島先端部の沖合に位置する柏島の港町。豊後水道と太平洋の境目に位置し、西南四国沿岸海域における海運の要衝にあった。

土佐と九州を結ぶ港

 16世紀中頃に豊後に滞在した鄭舜功は著書『日本一鑑』の「万里長歌」や「夷海右道」に柏島の名を記している。すなわち「夷海右道」では、豊後蒲江から豊後水道を渡って 「小路島(鵜来島)、「蒙島」(母島、沖の島)、「深港」(宿毛湾北岸)と幡多郡西部に至る。そこから「柏島」、「駒妻」(古満目)経て清水に至る。その先は足摺岬を周って「四崎」(与津)や「洲崎」(須崎)、「浦戸」などを経て和泉の堺に到達する。

 後述の通り、土佐と九州の交流は別の日本側の史料からも確認できる。

天正年間の柏島

 16世紀末の『長宗我部地検帳』によれば、村内の三町五反余の屋敷・田畠のうち、一町余、二十八筆が屋敷地であり、他に「船蔵ヤシキ」二ヶ所と稲荷宮、鎮守堂、妙音寺、古城跡があった。「村キミトイヤシキ」(村君土居屋敷)に「依(依岡)源兵衛」がおり、「村キミ」(村君、幡多地域における海浜集落の主導者を指す)として当時の柏島を支配していたとみられる。他の屋敷の住人は「船頭伊与助左馬進」を除けば大半が「水主」であり、島の住人の大半が海運に携わっていたことがうかがえる。

 また「依(依岡)源兵衛」の「村キミトイヤシキ」一反余と「稲荷神領」二反余以外、すべて「御直分」(長宗我部氏直轄領)であった。長宗我部氏は柏島を直轄地として、先述の航路の掌握を図っていた可能性がある。

戦国期の土佐と南九州の交流

  既に永禄十一年(1567)には長宗我部領の土佐浦戸の廻船が大隅の志布志湾沖を航行していたことが江村親家宛の薬丸兼将書状にみえる。天正四年、薩摩の島津義久は長宗我部元親に「廻舟彼是向後互為可申承」と廻船の往来を提案しており、長宗我部氏としても九州との積極的な交易のために海路の確保を重視したことが考えられる。

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神社・寺院

  • 稲荷宮
  • 法蓮寺:天文三年、日蓮宗の柏原丹後が京都から来て建立したという。
  • 護念寺:石山合戦後、真宗の村上元房らが来島して建立したという。

人物

  • 依岡源兵衛
  • 刀禰藤兵衛

商品

城郭

  • 岩田城:岩田将監の居城という(『土佐州郡志』)。
  • 柏島城:依岡源兵衛が築いたという(『土佐州郡志』)。天正年間、長宗我部氏の元で依岡源兵衛の居城となった(『南路志』)。

その他の関連項目

参考文献

  • 市村高男 「海運・流通から見た土佐一条氏」 (市村高男 編 『中世土佐の世界と一条氏』 高志書院 2010)
  • 津野倫明「南海路と長宗我部氏」 (『長宗我部氏の研究』 吉川弘文館 2012)