府内(越後府中)
ふない
中世、上越の中心都市。守護所が置かれる政治都市として、また経済都市としても栄えた。要港・直江津に隣接し、下越方面へ延びる北陸道及び信濃方面へ延びる善光寺街道の基点でもあり、海陸交通の要衝にあった。 至徳寺や安国寺、応称寺、国分寺など多くの寺社が集まる宗教都市でもあった。これら寺院の文化活動に加え、室町期には越後守護・上杉氏の招きで万里集九や冷然為広などの文化人が訪れるなど、越後の文化の中心でもあった。
府内の経済活動
永禄三年(1560)五月、長尾景虎は、府内町人の諸役・地子の五年間免除等を定めた条目を発布している。これにより、町人が「清濁酒役」や「麹子役」、「茶之役」、「船道前」・「馬方前」(船や馬による運送業への賦課)などの役を負担していたことや、「青苧座」「薬之座」の存在、船の積荷に対する「鉄役」などが確認できる。府内は長尾(上杉)氏や町民の消費を支えるとともに、海陸の運送業者によって内陸や遠隔地からの物資が集散される重要な経済拠点だったことがうかがえる。
青芋取引の中心
特に青苧については、既に文明十八年(1486)、これまで越後の青苧取引を取り仕切ってきた本座衆以外の「甲乙人」が越後府中に赴いて勝手に商売していることが問題となっている。上杉氏の本拠でかつ積出港の直江津を持つ府内(越後府中)が越後の青苧取引の中心であったと推定される。
焔硝の輸入ルート
また上杉景勝の時代には、石見に米を運び焔硝を持ち帰った佐渡屋という商人がいた。府内を拠点とし、中国地方の石見と越後、佐渡とを結ぶ広域流通の一端をみることができる。