因島村上氏と宮地氏

はじめに

関係地図
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  戦国期、因島を中心に備後周辺の海域を支配した因島村上氏は、瀬戸内屈指の海賊衆として三島村上の一角を構成しました。しかし彼らはもともとは因島土着の勢力ではありません。14世紀末か15世紀初頭ごろは、同島南部に進出したばかりの伊予出身の海賊でしかありませんでした。そこから半世紀をかけて小早川氏らの勢力をおさえ、15世紀中頃に因島のほぼ全域を勢力下におさめます。

  その因島村上氏の重臣が、中世、因島の中心地中庄(現在の因島市中庄町)にあった大江城(中庄町大江)を拠城とした宮地氏です。因島村上氏の菩提寺である金蓮寺の造営に深く関わり、一方では所有の船による水運で主家を支えた宮地氏は、因島村上氏にとっても非常に重要な存在であったとみられています。

  しかし、一方で宮地氏は因島村上氏の譜代の家臣ではありませんでした。応永三十年(1432)頃になって因島村上氏に仕えたいわば新参の家臣であり、伊予から北上してきた因島村上氏とは対照的に、備後沿岸部から因島に「南下」してきた勢力だったのです。

本コラムは、そんな宮地氏の数奇な運命を追ってみるのです! 

因島村上氏家臣・宮地氏の性格

[史料1] 金蓮寺棟札寫

「棟札写」(端裏書)
奉新造立宝鐘山金蓮寺薬師如来精舎一宇
備後國御調郡因嶋中之庄村
右祈願者、奉爲金輪聖皇 天長地久 御願圓満 殊者當村本家領家庄官衆民
大檀那家門繁昌 武運増進 息災延命 増長福壽 現世安穏 後生善處、
文安陸天己巳八月吉日
住持権大僧都法印快秀
領主村上備中守源吉資
大願主沙弥明光子息
宮地大炊助大江資弘
大工沙弥永金藤原満村
小工拾二人

 これは文安六年(1449)八月に因島村上氏の菩提寺であり、因島の中心的寺院でもある金蓮寺の薬師堂が建立されたときの棟札の写しです。ここに「領主村上備中守源吉資」 につづいて「大願主沙弥明光子息 宮地大炊助大江資弘」として、当時の宮地氏当主・宮地資弘の名が見えます。

 宮地資弘は「大願主」とあるように、この金蓮寺薬師堂の建立事業の中心人物であり、また「領主村上備中守源吉資」とある当時の因島村上氏当主の村上吉資と「資」の字が通じていることからも因島村上氏の一族か、少なくとも重臣クラスであったこがうかがえます。

[史料2] 金蓮寺在銘瓦

牡 瓦
金蓮寺御堂上葺之事
宝徳二年庚午四月五日始之
住持覚照房金資快秀
大檀那宮地大炊助沙弥妙光
  瓦大工尾道住衛門五郎経次

因島中庄の大江城跡。宮地氏の居城と伝わる。
因島中庄の大江城跡。宮地氏の居城と伝わる。

 つづいて挙げた[史料2]は、[史料1]の一年後の宝徳二年(1450)四月、金蓮寺の屋根の葺き替え工事の際に使われた瓦にへらで彫ってあった銘です。ここにも「大檀那宮地大炊助沙弥妙光」(宮地資弘)とあり、宮地氏が「大檀那」として金蓮寺の改修事業を行ったことが分かります。

  [史料1]、[史料2]から分かるように、当時、宮地氏は短期間で続けざまに因島の中心的寺院の造営を手がけているのであり、財力や職人などの組織力を含めて相当の実力をち、因島村上氏家中、あるいは因島の支配構造の中でも極めて重要な存在であったことがうかがえます。

 この宮地氏の実力の背景には、同氏の活発な水運活動があったとみられています。次に挙げる「備後太田庄年貢引付」は、永享十一年(1439)から文安二年(1445)までの七年間に、「尾道守護殿」(備後守護の山名氏)から堺を経由して高野山に輸送された高野山領太田荘の年貢の輸送記録ですが、この中に宮地氏と思われる存在を確認することが出来ます。

[史料3] 備後太田庄年貢引付

同(嘉吉)三年正月廿八日
一 大豆卅石犬の嶋おゝいとのゝ船に上、
(中略)
一 米大豆参拾石者 いんのしまおゝい方の船ニつミ申候
嘉吉三年十一月廿四日

 [史料3]は「備後太田庄年貢引付」から必要な箇所を抜粋したものですが、ここから「いんのしま」(「犬の嶋」)の「おゝい」という人物の船が、嘉吉三年(1443)の正月と十一月に米や大豆を三十石ずつ船で輸送していることが分かります。

 そして既に挙げた[史料1]、[史料2]をふまえれば、「おゝい」が「宮地大炊助大江資弘」(「宮地大炊助沙弥妙光」)こと宮地資弘であると考えて間違いないと思われます。つまり、宮地氏は、自らが所有する船を使って水運事業を展開し、財をなしていたのです。

 因島を基地とする水運業者たちの活動は、文安二年(1445)における兵庫北関の課税台帳である『兵庫北関入舩納帳』にも記録されており、「三庄」の船が11回、「犬嶋」の船が12回入港していることが確認できます。これらの船には因島村上氏の関与が指摘されていますから、このうちのいくつかは宮地氏の関係する船だったのかもしれません。

  ただ、『兵庫北関入舩納帳』から分かる三庄や犬嶋の船の特徴として、ほとんどの船が備後塩のみを運んでいることが挙げられます。犬嶋船の中には若干、米やマメを運んでいる船があるものの、三庄船にいたっては積荷の100%が備後塩で占められています。

  備後塩の主な生産地は因島や弓削島、伯方島、岩城島などの島嶼部であり、備後塩を兵庫へ運ぶ船はこれらの島々を回って商品を積み込んだと思われます。逆に言えば、ほぼ備後塩しか運んでいない因島の船は、これら島嶼部からしか集荷していないということです。

  これに対し、宮地氏の船は嘉吉三年(1443)だけとはいえ、尾道から物資を積出しています。運んだ年貢はそれぞれ三十石と少ないですが、これはあくまで年貢のみに限定した数字であり、年貢以外にも尾道に集められる多くの物資を積み込んだものと思われます。

  「備後太田庄年貢引付」全体を眺めると、尾道から年貢を積出しているのは、兵庫牛窓などの若干の例外を除いては、ほとんどが尾道かその近郊の船主の船で占められています。宮地氏はこのような尾道で荷を扱っていたのであり、尾道と何らかのつながりがあったことを想起させます。

  そういう視点で見れば、[史料2]の瓦の銘に「瓦大工尾道住衛門五郎経次」とあって宮地氏の事業に尾道の瓦職人が関わっていること、また[史料3]の「備後太田庄年貢引付」で、宮地氏が「おゝいとの」と「との(殿)」付けで呼ばれていることも(同史料で「との」が付されている船主は他に一件しかない)、宮地氏が尾道を通じて瀬戸内水運に深く関わっていたことをうかがわせます。

因島以前の宮地氏

  宮地氏と尾道との関係は、宮地氏が因島村上氏に仕える前、つまり応永三十年(1432)以前の備後吉和の鳴滝山城主時代にさかのぼります。ただ、この時代についてはあまり良質な史料はなく、そのため、ある程度確からしいということしかいえません。

  伝わっている系図や『御調郡誌』などによると、宮地氏が鳴滝山城に本拠を構えたのは、だいたい鎌倉期ぐらいのようです。その後、建武三年(1336)、杉原信平(後の木梨杉原氏の祖)が足利尊氏から宮地氏の領地を含む木梨荘の地頭職を得ているので、宮地氏も木梨杉原氏(本城は鷲尾山城)の傘下に入ったものと思われます。

  しかし、応永三十年(1432)、宮地弘躬(恒躬)の代で、かねてより対立していた大平山城主・木頃経兼の攻撃を受けて、鳴滝山城は陥落し、一連の合戦で弘躬も戦死してしまいます。このとき、その子の明光が因島村上氏を頼って、因島に移ったと伝えられています。

  なお、『芸藩通志』の作成に際し、庄屋からの風土的な記録をまとめた「国郡志御用につき差出帳」には、鳴滝山の城主・宮地兵部恒躬が木梨の城主・杉原民部大輔と合戦して破れ、因島土生村に退いたとあるので、宮地氏は木頃氏のほかにも、主家の木梨杉原氏とも戦ったのかもしれません。たしかに、その方が、旧領を捨てて因島に逃れた理由としては理解しやすいように思われます。

  さて、この鳴滝山城主時代の宮地氏の支配地域ですが、城址などの分布から推定して、だいたい尾道市日比崎町から同吉和町、同福地町、そして三原市木原町あたりだったと考えられます。その領域は尾道に接し、拠城・鳴滝山城も尾道港の西の出入り口とその西部に広がる内海航路を見下ろすことができる尾道と水運をにらんだ城でした。

  また『芸藩通志』などは、鳴滝山城の麓にある出城の大夫殿城(水迫城)について、かつて船溜まりがあったこととともに、この城が「宮地宮内」の別居であり、宮内は木梨杉原氏の船奉行であったと伝えています。

  木梨杉原氏が尾道に支配力を及ぼすようになるのは戦国期に入ってからであり、それまではその近郊に水運、水軍の拠点を設定したと思われるので、宮地氏が木梨杉原氏の船奉行であったというのは十分考えられます。

  これら、宮地氏の支配地域や木梨杉原氏の船奉行としての地位から、鳴滝山城主時代の宮地氏が、尾道を中心とする水運に積極的に関わり、長年にわたって技術やノウハウ、その他瀬戸内海各地とのコネクションを獲得していった可能性は高いといえます。後年の因島時代において、宮地氏が水運事業で大きな力を発揮するのも、この時代の遺産によるところが大きかったものと思われます。

因島村上氏との邂逅の意義、みたいなもの

  以上の経過をたどり、宮地氏は因島村上氏の麾下に加わったわけですが、一方で、備後海域への勢力拡大を図っていた因島村上氏にとっては、長年にわたって尾道西方を支配して同海域を中心に活動してきた実績を持ち、かつ水運経営による安定した経済力を持つ宮地氏の加入は願ってもないことだったのではないでしょうか。

  16世紀に入り、因島村上氏は備後海域で勢力を拡大させ、天文十三年(1544)七月に要港・に領地を獲得し、さらに弘治元年(1555)には厳島合戦とその後の大内領への侵攻戦の見返りとして小早川隆景から、向島の一円支配を認められます。特に尾道の対岸である向島の支配は重要視しており、近世の『芸藩通志』によれば、同島最南部にあり、内海航路もにらむことができる観音崎に余崎城を築城して、当主・村上吉充自らが入ったと伝えられています。

  永禄十年(1567)、村上吉充は因島北部の青木城に移りますが、その後に城主となったのが宮地氏の一族とみられる鳥居(嶋居)資長でした(『芸藩通史』では宮地明光の次男とされているが、さすがに信じられない)。宮地氏は因島村上氏にかわり、向島の支配を担当し、そしておそらくは対岸の尾道などとの交渉も担当することになったのです。

  この向島支配の委任こそが、宮地氏の備後海域の経略、経営に果たしてきた役割、あるいはこれからも果たすことが期待された役割を象徴しているように思われます。

  備後沿岸の旧領を追われて一世紀以上。宮地氏はかつて備後海域で培った固有の能力を失わず、逆に特化したことで、備後の海の支配者として再び尾道の目の前に姿をあらわしました。因島村上氏もまた、宮地氏を得ることで、備後海域への進出・掌握への足がかりとして、戦国期の発展へとつなげていったのです。

主要参考文献

  • 青木茂 「宮地氏の因島における地位」 (『因島市史』) 市民編集委員会 1968
  • 青木茂 「中世港町における航運活動」 (『魚澄先生古稀記念国史学論叢 』 魚澄先生古稀記念会) 1959
  • 山内譲 「海賊衆と水運」 (『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局) 1998
  • 林屋辰三郎・編 『兵庫北関入舩納帳』 中央公論美術出版 1981
  • 『日本城郭体系13 広島・岡山』 新人物往来社 1980