厳島地下惣中

いつくしま じげそうちゅう

 厳島に居住する地下人(町人)らによって結成された自治組織。

  戦国期の天文年間、厳島神主・杉景教がこの地下惣中に水夫役銭を賦課したが、次いで社家三方(社家方、供僧方、内侍方)も支配下の地下人に水夫役を賦課しようとしたため、地下人らが二重賦課として拒否していることが史料にみえる。

  天文十年(1541)以降、厳島の支配権を握った大内氏・陶氏は、厳島の商人・職人の被官化を進めており、天文十九年(1550)、陶氏は厳島の「被官中」に山口・興隆寺の大頭役として上檜三千本の費用負担を求めている。この「被官中」は莫大な負担に応え得る財力を持った有力な町人層であったと考えられ、このような有力町人が同時に上層構成員として地下惣中を指導したと思われる。

  また元亀四年(1573)、「いせや浄念、くらや新右衛門尉、こんたや宗節」など土倉を経営していると思われる厳島の商人が、厳島社家に1628貫余りもの貸付を行っており、彼らもまた地下惣中の指導層であったと思われる。

 同時に、厳島神社の財政は、彼ら有力商人によって支えられていたとみられ、先述の水夫役銭などのように、厳島地下惣中は厳島神社の支援団体でもあったことがうかがわれる。

 

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 鈴木敦子「地域市場としての厳島門前町と流通」(『日本中世社会の流通構造』) 校倉書房 2000」