山地 右京進

やまじ うきょうのしん

 戦国期の讃岐守護・細川氏の讃岐西方守護代・香川氏の家臣。山地(山路)氏は元来、讃岐白方の海賊衆であったが、右京進は後に詫間城主となる。

海賊、山路氏

 康正二年(1456)の村上治部進書状によれば、東寺領弓削島は当時、「小早河少泉」と「山路」、「能島」の押領を受けていた。この内、「山路」には「さぬき国しらかたといふ所ニあり」と注がされており、現在の多度津町白方付近を本拠とする勢力だったことが分かる。また「山路ハ細河殿さま御奉公の面々」とも記されている。寛正三年(1462)にも弓削島に関する同様の状況を伝える史料があり、その中で「山路」は「海賊」との注記がなされている。

 15世紀中頃、讃岐守護・細川氏の傘下にあったこの讃岐白方の海賊・山路氏が戦国期の山地右京進の先祖と考えられる。というのも、「南海通記」に「西方関亭(立)中」に宛てられた大永七年(1527)の細川晴元書状が載せられており、この書状が「讃岐西方山地右京進其子左衛門督」の家に伝わっていたという記述がある。関立は海賊を意味する語。大永七年当時も山地(山路)氏は細川氏傘下の海賊衆であったことがうかがえる。

香川氏と山地氏

 なお、上記の書状は香川氏によって晴元から山地氏に伝達された。香川氏は細川氏の讃岐西方の守護代。山地氏の本拠の白方に隣接する多度津に居館をおいていた。香川氏は多度津を拠点に西讃岐一帯に支配力を強化し、あわせて海賊衆・山地氏の掌握を図ったものと考えられる。

詫間城主、山地右京進

 このような海賊衆としての山地氏の性格を受け継いだ右京進は、具体的にはどのような活動を行ったか。
「讃陽古城記」によれば、山地右京進が詫間城主となり、「三野、多度、豊田三郡之旗頭」であった。「西讃府誌」にも、詫間氏の詫間城を細川氏が奪い、香川氏に属す山地右京進が守将となったことが記されている。
 詫間は西讃岐の重要な港町の一つであり、その支配には海賊衆である山地氏が適しているとの判断があったものと思われる。

関連人物

その他の関連項目

  • 詫間城

参考文献

  • 橋詰茂「海賊衆の存在と転換」(「瀬戸内海地域社会と織田権力」思文閣出版 2007