山地 九郎左衛門

やまじ くろうさえもん

 讃岐西部を支配した有力国人・香川氏の家臣。山地右京進の子。三木郡池戸の中城の城主。

羽柴軍との合戦で活躍

 天正十一年(1583)五月、香川信景は大内郡入野庄合戦で敵の首級を挙げた山地九郎左衛門に感状を与えている。この合戦は、長宗我部元親の軍勢が引田浦にいた羽柴秀吉の部将・仙石久秀を攻めた際のもので、長宗我部勢の一将であった香川氏に率いられた山地氏が、敵方の田村志摩守の首を討ち取ったという(「南海通記」)。また感状の奥書には「九郎左衛門香川家旧臣也」とあり、九郎左衛門が香川氏の家臣であったことが分かる。

海賊衆の系譜

 「南海通記」には「西方関亭(立)中」に宛てた大永七年(1527)の細川晴元の書状が記されている。文中には続けて「此書ハ讃州西方山地右京進其子左衛門督ト云者ノ家ニアリ」とみえる。「関立」は海賊を意味する語であり、この書状が伝わった山地氏が当時は海賊衆であったことがうかがえる。また「左衛門督」は九郎左衛門を指すとみられるので、九郎左衛門が右京進の子であったことも分かる。

三木郡池戸の中城に移る

 「讃陽古城記」の三木郡の項には、「三木池戸村中城跡 安富端城也、後ニ山地九郎右衛門居之、山地之先祖者、山地右京進、詫間ノ城ノ城主ニシテ、三野、多度、豊田三郡之旗頭ノ由」とある。九郎右衛門は九郎左衛門の誤記とみられる。九郎左衛門は三木郡池戸の中城の城主であった。

  父・右京進の代は詫間城主であった山地氏が九郎左衛門の時には内陸の池戸の中城に移っている。「西讃府志」には詫間城について「ヤガテ山地右京進ニ守ラシメシガ、其子九郎左衛門ニ至リ、故アリテ池戸城ニ移サレツルナルベシ」とある。

  中城は「讃陽古城記」に「安富端城」とあるように、もとは東讃岐を支配した安富氏の出城であった。香川氏がここに九郎左衛門を入れたのは、長宗我部氏による東讃岐攻めのための拠点構築の目的があったのかもしれない。

関連人物

その他の関連項目

  • 詫間城
  • 中城

参考文献

  • 橋詰茂「海賊衆の存在と転換」(「瀬戸内海地域社会と織田権力」思文閣出版 2007