友田 広就

ともだ ひろなり

 国人領主としては最後の代となった厳島神主。友田興藤の弟。掃部頭。精彪で強弓を引いたといわれる。

五日市城の跡に建つ教会。
五日市城の跡に建つ教会。

厳島神主職の継承

 享禄元年(1528)八月、先代神主の友田藤太郎(兼藤)の跡を受けて厳島神主職を継ぐ。享禄三年十二月、大内義隆の代替わりの挨拶を行うよう陶興房から要請を受けて厳島から山口に下向している。

  神主職を継承した享禄元年の十二月、広就は先に興藤が寄進した造営領を大願寺に安堵しており、神主としての活動がみられる。しかし、厳島社家の棚守房顕は『覚書』の中で、大内義興の死後に興藤が神領(厳島神社領)を思いのままに治めていると記しており、実権は兄の興藤が握っていたようである。

厳島神主家の滅亡

  天文十年(1541)正月、広就は興藤とともに大内氏に叛旗を翻し、三月、藤懸に拠る大内勢を切り崩した桑原与四郎に感状を与えている。四月五日、興藤が切腹して桜尾城が陥落すると、広就は神領衆・栗栖氏に共をされて同じく神領衆の宍戸氏が守る五日市城に落ち延びた。しかし六日には五日市城にも大内勢が押し寄せたため、宍戸氏によって切腹させられた。その際、広就は大内勢に向けて矢を三本放ち、弓を切り折って腹を切ったという。

 広就の跡の神主職は、興藤と神主職を争った小方加賀守の娘を娶っていた大内氏家臣・杉景教が継いだ。自立した領主としての厳島神主家はここに滅亡した。

厳島神主家

廿日市厳島、桜尾城

関連人物

  • 友田興藤:広就の兄。先々代の厳島神主。神主を退いた後も実権を掌握していた。

その他の関連項目

  • 桜尾城
  • 五日市城

参考文献

  • 『廿日市町史 資料編Ⅰ』 1979
  • 藤田直紀・編 『棚守房顕覚書』 宮島町 1975