野間 弘宣

のま ひろのぶ

 15世紀後半における安芸国矢野の国人領主・野間氏の当主。 実名の「弘」は大内政弘からの偏諱か。

第二音戸大橋から眺めた音戸の瀬戸と第一音戸大橋。瀬戸城は、第一音戸大橋の東詰(画面右側)の 橋脚部にあったといわれる。
第二音戸大橋から眺めた音戸の瀬戸と第一音戸大橋。瀬戸城は、第一音戸大橋の東詰(画面右側)の 橋脚部にあったといわれる。

波多見島への侵攻

  文正元年(1466)三月、野間弘宣は軍勢を動かして波多見島(広島県呉市倉橋島北部)に侵入する。同島は応永二十八年(1421)一月に先代の野間公光が実古の「御後家御庵」料として以降、実古の嫁ぎ先である竹原小早川氏の支配下にあった。さらに永享四年(1432)十二月、公光(陽因)は去文でもって波多見島を竹原小早川盛景に永代譲渡することを約束していた。

大内氏の調停

 竹原小早川側は大内氏に件の去文を提出して抗議したが事態は解決せず、仁保弘有・杉重隆連署状によれば応仁元年(1467)四月に至って「可及弓箭之様」となり、両軍勢は一触即発の状況となった。これに対し、応仁の乱への参戦準備をすすめていた大内氏は両氏の軍事行動を牽制するとともに、奉行人をに派遣して調停を試みる。十二日には子細を弘宣に布告すべく杉重隆が矢野に向かっている。

  応仁元年七月、大内氏は軍勢を率いて上洛する。上述の連署状には、野間、小早川ともに上洛の際の同道を何度も約束していることが記されており、弘宣も麾下の軍勢を率いて上洛したと思われる。

瀬戸城攻略

 しかし同年十一月、野間軍は再び波多見島に侵攻し、上洛で手薄になった同島・瀬戸城の攻略を果たす。竹原小早川はすぐさま大内氏に訴えるものの、京都情勢のこともあり、留守役の大内道頓から「堪忍」を求められる。この後、野間氏は大内氏からも事後承諾を得られたとみられ、15世紀末頃まで波多見島の一円支配を継続する。

関連人物

  • 野間公光:野間氏の先代。竹原小早川氏に波多見島を譲渡した。
  • 小早川弘景
  • 瀬戸式部丞

その他の関連項目

  • 保木城:矢野の発喜山に築かれた山城。野間氏の本城。

参考文献

  • 下向井龍彦 「第4節 竹原小早川氏と矢野野間氏の抗争」 (『音戸町誌』 2005)