ファン・ガヨ
ふぁん がよ
天正十五年(1587)、平戸からルソン島のマニラへ渡った渡航船の船長。日本人。同年、ルソン島のイスラム系原住民の武装蜂起計画の謀議に関与したとされる。
松浦家臣吉近はるたさとの関連性
ガヨがマニラに渡航した同時期には平戸領主・松浦氏の家臣である吉近はるたさが日本人渡航団の長としてマニラに渡ったことが確認される。マニラにおける両者の活動は連関する部分も多く、ガヨと吉近は同一人物か、または極めて近い関係にあったとみられる。
ルソン島での武装蜂起計画
スペイン人が調査した武装蜂起計画の経過と全容は、1589年五月二十日付で作成されたマニラ総督府の事件報告書、およびメキシコ副王宛マニラ総督書簡などに残されている。これらによると、ガヨは1587年、ルソン島原住民の首領であったドン・アグスティン・デ・レガスピと親交を深めて次のような計画を練り上げたという。
それは、まず日本からガヨがスペイン人との友好的交易という口実のもとに兵士や武器をルソンに持ち込む。第二段階として、ボルネオ、モルーカ、マレーのイスラム系勢力にその武器を横流しし、陸海からルソンのスペイン人を包囲して総攻撃をかける、というものだった。最終的にはスペイン人を皆殺しにして原住民首領一族がルソン島を支配し、支配階級には日本人を入れる合意が交わされていたという。
ルソン島原住民への武器供与
1587年のこの謀議の時点ですでにガヨは、日本から輸送していた武器をイスラム系原住民勢力に供与し、協力の印とした。実際、別の史料には1587年に大勢の日本人と商品を乗せてマニラに到着したガヨ船長の船が記録されている。またガヨと同時期にマニラを訪れていた吉近はるたさの船が武器を搭載していたという記録もある。
計画は1588年十月に発覚し、スペイン側によって未然に防がれたが、発覚数日前には日本からの武器や火縄銃を供与されたボルネオ勢力がマニラ湾に迫っていたという。