三本松城(津和野城)
さんぼんまつ じょう
津和野町の城山山脈南端の標高376メートルの山上に築かれた山城。中世、石見西部の有力国人・吉見氏の拠城として長門、周防、石見の三国間の交通路を押さえた。
天然の要害
津和野川が城をぐるりと囲むように城山の西麓から南端を回って東、さらに北に向かって流れ、天然の内堀を成している。また周囲の盆地の外側には城を囲むように高い山々が連なっているなど、天然の要害としての多くの要素に恵まれていた。
吉見氏の拠城
最初の築城時期は鎌倉期。元軍への備えのために石見国西部の木曽野(木薗)に入部した吉見頼行が、永仁三年(1295)から築城を開始したと伝えられる。その後、吉見氏の勢力拡大にともない随時拡充が行われ、下頼山城や勝山城など石見鹿足郡内から長門国にまたがる吉見氏支城郡の中心となった。
陶氏、益田氏との戦い
中世を通じて三本松城をめぐる合戦は天文二十三年(1554)三月から大内氏重臣・陶氏と西石見の有力国人・益田氏を中心とする軍勢の攻撃を受けた時のみとされる。吉見氏はもとも、陶氏、益田氏とは対立関係にあったが、天文二十年(1551)に陶隆房がクーデターで大内義隆を殺害し大内氏の主導権を握ると武力衝突へと発展した。特に三本松城の大手口であった城山西麓では激戦が展開され、現在にも「戦」の地名を残している。吉見方は周辺の支城と連携しつつ五ヶ月間にわたり篭城戦に耐えた。しかし最終的には毛利氏の挙兵への対処を急ぐ陶方の事情もあり、講和が結ばれて戦闘は一応終結した。
三本松城は近世においても坂崎氏、亀井氏によって改修を受け、津和野城として受け継がれた。