串崎城(雄山城)

くしざき じょう

 長門の主要都市・長府南端の海城。周防灘に向かって突き出した半島の丘陵(雄山)に築かれた。現在の山口県下関市長府宮崎町に位置する。関門海峡の要所を扼す位置にあり、長府の支配拠点であるとともに、関門海峡を掌握できる水軍基地でもあったと思われる。

かつての毛利氏の水軍基地だった串崎城(雄山城)の威容を現在に伝える松崎口の石垣。
かつての毛利氏の水軍基地だった串崎城(雄山城)の威容を現在に伝える松崎口の石垣。

内藤氏の城

  築城年代は明らかでない。大内氏、毛利氏に仕えた長門守護代・内藤隆春が在城していたとされることから(『豊府誌略』)、あるいは、内藤盛貞以来長門守護代を世襲した内藤氏によって築かれたのかもしれない。

 『温故私記』には永禄十二年(1569)九月、内藤隆春が家臣・勝間田盛長に串崎城を預けたことが記されている。毛利氏の支配下にあっても串崎城には引き続き内藤氏および小守護代でもある勝間田氏が在城していたことがわかる。

毛利秀元の入城

  関が原合戦後の慶長七年(1602)、毛利秀元のもとで串崎城は大規模な改修が開始され、雄山城と改められる。この改修の背景には、関門海峡周辺に水軍拠点を設定し、有事の際に備えようとする毛利氏の戦略があったとも考えられる。

毛利氏の再軍備計画

 しかし元和元年(1615)、「一国一城令」により雄山城は破却される。雄山城の詳細な構造を現在に伝える「雄山城諸口櫓図」が作成されたのはこの破却間近の頃といわれる。毛利氏が雄山城を破却しながらも、再軍備の際には城を復活させる意思をもっていたことをうかがわせる。

 さらに、現在伝わる「雄山城諸口櫓図」は、江戸中期に描き替えられたものであり、この時期においても城の復活計画は放棄されていなかったとも考えられる。

 

Photos

復元された天主台。確かな資料は存在しないが、雄山城に天主があったと可能性は高いという。 串崎城(雄山城)の本丸の石垣。

関連人物

  • 内藤隆春
  • 勝間田盛長
  • 毛利秀元:初代長府藩主。穂井田元清(毛利元就の四男)の子。

その他の関連項目

参考文献

  • 『日本城郭体系14 鳥取・島根・山口』 新人物往来社 1980
  • 藤井尚夫 『ドキュメント戦国の城』 河出書房新社 2005