鉄(美作)

てつ

 中国山地沿いに位置する美作国で産出され、同国や備前などで利用され、さらに貢納物などとして京畿方面にも運ばれた鉄素材。キナザコ製鉄遺跡(現・津山市)にみられるように古くから製鉄が盛んであった。

  『続日本紀』神亀五年(728)四月辛巳条には、太政官が美作国からの請願として、同国の大庭・真嶋の二郡の庸米を輸送に便利な綿鉄に換えるよう奏上していることがみえる。平城宮跡出土の木簡にも、天平十七年(745)、美作の「すさい(周匝)郷」から「調鍬十口」が納められていたことが記されている。当時から美作では製鉄が盛んであり、このため鉄、及び鉄製品が中央へ貢納されていたことが窺える。

 また『日本霊異記』によれば、英多郡には官営の鉄穴がおかれていたともいう。その後も、平安後期にあたる長久元年(1040)の「東大寺返抄案」でも、美作から鉄・三百三十九挺、鍬・二百十五口が貢納されていることが確認できる。

  中世における美作の鉄生産、流通ははっきりとはしないが、 河川水運を通じて、備前国などでも利用されたとみられる。美作から流れる吉井川の下流には備前刀の製造拠点である長船や福岡があり、備前国が延暦十五年(796)に「鍬鉄無し」とされていることからも、美作から河川水運で鉄が運ばれ、備前刀の素材として供給されていたいた可能性は高いとみられる。

参考文献

  • 「第三章 第四節 荘園の商業と交通」 (『岡山県史 第五巻 中世Ⅱ』 ) 1991
  • 『岡山県史 第十九巻 編年史料』 1988