備前刀

びぜんとう

 中世、備前国吉井川下流域の長船や福岡を拠点とする備前刀工によって製造され、全国的に流通した刀剣。備前鍛冶の拠点となった福岡・長船地域は、山陽道が通る交通の要衝。吉井川もの産地である美作国に通じていることから、流通や技術、素材の入手などに有利な条件を備えていたと思われる。

平安期の備前刀鍛冶

  備前刀工の早い例では、『中右記』の寛治八年(1094)十一月の記事に、天徳四年(960)、備前国の仮(鍛)治・白根安生が霊剣を鍛造したことがみえる。

福岡一文字派の台頭

 鎌倉期に至ると、福岡一文字派が台頭。備前刀工の福岡・長船地域での活動が確認されるようになる。
 建長元年(1250)の「福岡荘吉井村作田内検目録」によれば、鍛冶成宗が吉井村の中で給田を与えられている。この成宗は福岡一文字派の刀工であり、備前刀が荘園領主の庇護のもとで製造されていたことを窺わせる。

室町期、浦上氏と備前刀

 また『蔭涼軒目録』長享二年(1488)の八・九月の記事に、備前の長船勝光・宗光の一党六十人が上洛し、足利義尚のもとで千草鉄廿駄を用いて刀を打ったことがみえる。彼らを斡旋したのが備前守護代・浦上氏であり、上記と同じく備前刀の製造が在地有力者と密接な関係にあったことがうかがえる。

海外輸出の可能性

  備前刀の流通には不明な点が多いが、寛正五年(1464)、三万把超の刀剣が遣明貿易で明国に輸出されており、遣明貿易と牛窓などの備前の港との関係から推察して、相当数の備前刀が含まれていたと思われる。

Photos

福岡一文字派の石碑。

市場・積出港

人物

  • 長船勝光

その他の関連項目

参考文献

  • 「第三章 第四節 荘園の商業と交通」 (『岡山県史 第五巻 中世Ⅱ』 ) 1991