内ノ子(内子)
うちのこ
伊予中部の大河川・肱川の支流である小田川が貫流する内子盆地に位置した市場町。室町・戦国期、交通の要衝にあることから宿場町として、また国人・曽根氏の城下町としても栄えた。
交通の要衝
内ノ子には道後、松山平野に至る街道が通るとともに、伊予中部山間部を抜けて東の久万・大宝寺に至る遍路道の起点だった。また西には大津(大洲)を通じて長浜や宇和郡へ至る街道が延びており、まさに伊予の中部、南部を結節する交通の要衝にあった。
市場の繁栄
『大洲旧記』に記された下田渡村の先庄屋源蔵祖父の聞書によれば、内ノ子ではもともと廿日市が繁昌しており、さらに高昌寺門前に新市が立てられて七日市となったという。しかし、天正十三年(1585)から内ノ子に「太守」がいなくなり、廿日市のみが繁昌し、七日市がさらに衰えたため、文禄慶長の頃、七日市を分けて六日市を作ったとしている。ちなみに浄久寺(高昌寺の前身)が現在の地に移ったのが天文二年(1533)とされている。
「荒えびす」
また、廿日市には厳島から勧請した「荒えびす」が鎮座しており、毎月市日に一日宛開帳があったため、遠方よりの参詣者も多く、廿日市はこれにより賑わったという。交通の要衝にある内ノ子に各地から人が集まり、活発な商売が行われていたことが窺える。
さらに内ノ子は、江戸期、四国遍路の宿場町であったことが確認されており、荒えびす参詣の例から、遡って戦国期においても宿場町であった可能性はあると思われる。