大津(大洲)
おおず
伊予中部の大河川である肱川が貫流する大洲盆地に位置し、中世、領主・宇都宮氏の本拠として栄えた城下町。
大津の位置
大洲盆地や肱川上流部の物資を河口の港である長浜へ下す際の中継地を担っていたと推定され、また西に八幡浜、南に宇和盆地・松葉、東に内ノ子へと至ることができる伊予中部の交通の要衝でもあったと思われる。
地蔵嶽城の城下町
『大洲旧記』によれば、元徳二年(1330)、豊前宇都宮氏五代頼房の子である宇都宮豊房が伊予守護職に任じられ、翌年、伊予に移っている。この豊房の代で地蔵嶽城(後の大洲城)が築かれ、大津が伊予宇都宮氏の本拠となったとみられる。
豊房は下野の宇都宮二荒山神社から分霊を大津庄五郎村に勧請するとともに、大津に法華寺や菩提寺の城願寺を建立しており、以後、大津は宇都宮氏代々の城下町として発展したと思われる。
戦国末期の宇都宮氏の滅亡後には天正十三年(1585)、伊予を支配する小早川隆景の養子・秀包が地蔵嶽城に入る。二年後の天正十五年(1587)には戸田勝隆が伊予国の宇和郡・喜多郡を得て地蔵嶽城主となっており、宇都宮氏滅亡後も大津が伊予中部・南部の中心であったことがうかがえる。