田名部

たなぶ

 下北半島の田名部川河口からやや遡った地点に位置する川湊。河口部の安渡浦を外港として下北の中心を担った。

安藤氏の拠点

 正中二年(1325)九月の安藤宗季譲状には宇曾利郷(下北地方)のうち、田屋、田名部、安渡浦を女子とら御前に一期分として譲ることが記されており、この頃には下北における安藤氏の拠点となっていたことがうかがえる。また嘉吉二年(1442)、南部氏の傀儡として安藤氏の惣領とされた潮潟安藤四郎師季も田名部を知行している。これは当時の田名部が下北地域及び旧安藤氏領の中心の一つにあったことを示していると思われる。

田名部と日本海流通

 16世紀末頃、南部氏は酒田の加賀屋や越前の久末、道川らの持船が田名部諸浦に入る際の船役免除を認めている。これは以前からの当該地域間の海運の存在が前提となっているといわれる。

 下北半島東岸の東通村にあり、14~15世紀のものと推定される浜尻屋遺跡からは、竈と大量の鮑(アワビ)殻が発見され、中世の干鮑加工施設であったことがわかっている。ここで生産された干鮑が陸路で田名部へと運ばれ、日本海経由で消費地である京都方面へ送られたと推定される。

 このように田名部は中世、日本海航路の商品流通の一端を担っていたとみられる。他にも木材(南部檜)や蝦夷との交易品などが取引されたものと思われる。

城郭

  • 田名部館

参考文献

  • 綿貫友子 「中世陸奥国の海上交通と陸上交通」(柵原敏昭・飯村均・編 『鎌倉・室町時代の奥州』 高志書院) 2002