嘉瀬

かせ

 有明海北端に注ぐ嘉瀬川河口に位置する港町。現在の佐賀県佐賀市嘉瀬町。平吉氏など戦国大名龍造寺氏をささえた有力商人が住んでおり、肥前を代表する港町の一つとして中国にも知られた。

嘉瀬庄の港町

 『平家物語』によれば、安元元年(1175)、鹿ケ谷事件で鬼界が島に流された平康頼等が、許されて帰る際に「鹿世荘」に上陸している。このことから12世紀後半には嘉瀬庄に津が成立していたことがうかがえる。

 時代は降って1562年に中国の明朝で刊行された『籌海図編』には有明海の港の一つとして嘉瀬が記載されており、明に知られた港であったことが分かる。

 同じく16世紀、龍造寺隆信が弟の長信に宛てた書状にも「賀瀬津」で雁狩りを行ったこと記されている。また天正十七年(1589)八月の『御祓賦帳』※1には地名として「かせのいまづ」(嘉瀬今津)がみえる。

嘉瀬の町場

 『御祓賦帳』には「かせの上町」(嘉瀬上町)も記載されており、檀那として多久間与三左衛門、平吉刑部殿、増吟の三名がみえる。一方で慶長二年(1597)の『御参宮人帳』※2二月の項には「嘉瀬庄下町」から七人の参宮者がいたことが記されている。この時期の嘉瀬は、少なくとも上町と下町の二つの町場が成立していた。

盛んな伊勢参宮

 上記の『御参宮人帳』によると天正十年(1582)から元和九年(1623)までの間に嘉瀬(「加瀬村」「加世村」「嘉瀬庄」など記載は様々)から合計135名が伊勢参宮を行っている。嘉瀬では伊勢信仰がきわめて盛んであり、同時に長期の移動を必要とする伊勢参宮を行い得る経済力と時間を有する人々が多数存在していたことがうかがえる。

豪商平吉氏

 『御祓賦帳』に嘉瀬上町の檀那としてみえる平吉刑部は、「平吉家由緒書」によると「嘉瀬両町其外御國七ヶ所之津代官、并御領内舟之司」に任じられたという。上町と下町の嘉瀬両町をはじめ龍造寺氏領国の港町、海運に大きな影響力を持った人物だった。また瀬戸内海の海賊衆・村上武吉から瀬戸内海航行の安全を保障する旨の書物を得たとも記されており、瀬戸内海にまで及ぶ海運業をも行っていた。

 刑部はまた天正十九年(1591)三月、朝鮮出兵に際して龍造寺領国内の有力商人を取りまとめて軍備調達に尽力。自身も独力で三千斤の煙硝を負担した。『御祓賦帳』に嘉瀬今津の住人としてみえる段源右衛門もこの時に協力した商人の一人であり、煙硝五百斤を調えている。

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人物

  • 多久間与三左衛門:『御祓賦帳』の嘉瀬上町の項にみえる。
  • 平吉刑部丞:御用商人として龍造寺、鍋島両氏に仕えた貿易商人。
  • 平吉源右衛門:平吉刑部丞の子。慶長二年(1597)には破格といえる銀二十四匁の初穂料を伊勢神宮に納めている。
  • 増吟(増誾):龍造寺氏の使僧的な役割を担った人物。大友氏重臣・戸次道雪の嫡女誾千代の名は増吟から一字もらったと伝えられる(『豊前聞書』)。
  • 段源右衛門尉:『御祓賦帳』の嘉瀬今津の項にみえる有力商人。龍造寺氏の朝鮮出兵に際し軍備調達に協力した商人の一人。
  • 段伊豆守:『御祓賦帳』の嘉瀬今津の項にみえる。

商品

城郭

その他の関連項目

脚注

  • ※1:天正十七年(1589)八月に伊勢神宮御師橋村氏の手代の竹市善右衛門尉が筑後国、肥前国、肥後国の三ヶ国の檀家を巡回して「御祓大麻」等を配布した際の配布先を記録した帳簿。
  • ※2:伊勢神宮の橋村氏を御師とする伊勢神社参詣者の名簿。天正十年から元和九年までの記録。

参考文献

  • 鈴木敦子 「戦国期肥前国における「町」の研究」 (『戦国期の流通と地域社会』 2011 同成社)