a.は134ページの「瀬戸内の海沿いの小さな国だった」から、b.は174ページの「(因島村上氏は)対岸に根をはる海賊の裔だ。」という尚隆のセリフからうかがえます。c.d.e.は140ページの記述の引用です。そしてf.は前項でも触れた142ページの尚隆のセリフから分かります。
b.で対岸の島について若干微妙な書き方をしていますが、これは広い意味でとれば因島村上氏、もしくはその一族、一派が根城としている島とも解釈きるためです。例えば現在の福山市内海町の田島などには因島村上氏の有力な一族がいた可能性があります。しかし、ここではf.から小早川氏領と接近した位置にあることがうかがえるので、因島として問題ないと思われます。
これにより、小松氏の本領は因島の対岸の山陽沿岸部であることが分かります。さらに、沼田川の河口部、現在の三原市中心部周辺は16世紀中頃まで木梨杉原氏、もしくは高須杉原氏の所領であったことが史料上で確認されているので、小松氏の領地はこれ以外の地、すなわち現在の三原市木原町周辺であると推定できます。
この木原町について
c.はともかくd.は満たせるのかという問題はありますが、小島に築かれた城(海城)は、浸食や開発による影響を受けやすく、現在に至るまで完全に消滅してしまったものも少なくないので、中世にはあったということにしておきます。候補としては現在、陸から550m程沖にある大鯨島か、あるいは江戸期に編纂された芸藩通志の木原村の地図に載っている赤石地区の沖の小島かもしれません。
以上により、小松氏の領地は三原市木原町を中心とする一帯であったと推定できます。
これらの地は、瀬戸内屈指の港町である尾道へ至る尾道水道の西の関門ともいうべき位置にあり、戦略的な価値のみならず、船舶からの通行料徴収など経済的な価値もまた非常に高いものがあったものと思われます。作中174ページで、尚隆が因島村上氏が攻めてくる理由として「対岸からここまでを制圧できれば瀬戸内に関を築くに等しい。」と述べていますが、木原町一帯はこのセリフにも十分合致する要地であるといえます。
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