■ 長文コラム [COLLUM]
             
     

海辺領主・小松氏の滅亡年代の推定

       
  15世紀後半、小松氏周辺の勢力地図

 小松氏の領地については、因島の対岸で、しかも史実での領主が
はっきりしていないことから現在の三原市木原町周辺を推定しています。
 

はじめに

 『十二国記』という小説をご存知でしょうか?

「小説家・小野不由美が、1992年から書き続けている壮大なスケールの異世界ファンタジー」(十二国記公式ページ)です。ですが、長くなるので説明は割愛します。
 人や国の運命・あり方などについて、いろいろ考えさせられる作品で、個人的にはとても好きでした(過去形なのは・・・言わずもがなのことなのでこれも割愛)。

 この『十二国記』の舞台となる世界には、文字通り十二の国があるのですが、その一つに「雁」(えん)という国があります。この雁国の王は、小松三郎尚隆といい、元は室町・戦国期の瀬戸内沿岸部の国人領主であり、自分の「国」が対岸の海賊衆・因島村上氏に滅ぼされてしまったため、故郷である日本(蓬莱)を捨てて雁国の王として即位しています。
  なかなか心をくすぐられるいい設定です。
 ということで、本コラムは、今一度、『十二国記』の記憶を蘇らせる目的も兼ねて、小松氏が滅亡したのはだいたいいつ頃だったのかということを考えてみたいと思います。

 なお、小松尚隆の即位以前の話は『十二国記』シリーズの内の『東の海神(わだつみ) 西の蒼海』(講談社X文庫ホワイトハート 1994)で触れられています。以下、特にことわりなく「作中」とある場合は、同書のことを指し、ページ数は同書のページを示します。

小松氏滅亡年代の推定

 まず、作中の記述から確実な事柄を列挙します。

 
         
         
 a.六太は小松氏滅亡時、十三ないし十四歳。
 b.六太は「うんと幼い頃」、京都で応仁文明の乱の大規模な戦火に遭っている。
 c.六太は、四歳のとき、親に捨てられた。
 d.小松氏滅亡の三年前に六太は焦土と化した都をみている。
 e.小松氏滅亡は応仁文明の乱終結後しばらくたってから。
     
         
  a.六太は小松氏滅亡の二十年後の時点で年齢が三十三歳であること(23ページ)からの逆算です。b.とc.とd.はそれぞれ51ページと10ページと133ページの記述から、e.は174ページの「河野は応仁文明の乱以来手綱が緩んでいる」という尚隆のセリフから分かります。
 応仁文明の乱は、応仁元年(1467)正月、畠山政長と畠山義就の衝突で幕をあけ、同年五月に本格的な戦争に突入し、文明九年(1477)十一月、西軍の撤収をもって終結します。この間でb.のように六太が罹災した可能性が最も高いのが、乱の初年、応仁元年五月から九月なかばにかけてです。
  実は京都洛中で本格的な市街戦が展開されたのは、長い乱中でもこの時期だけなのです。開戦当初、細川勝元率いる東軍は、山名宗全率いる西軍に対し、優勢に立っていましたが、八月、西国最大の大名である大内政弘が大軍を率いて西軍方として参戦すると、形成は完全に逆転し、東軍は西軍の圧倒的な兵力の前に花の御所(室町御所)を中心とする上京の一角に追い込まれてしまいます。しかし、東軍がここに「御構」とよばる巨大な防御施設に囲まれた要塞都市を構築していたことから、戦局は膠着状態となり、洛中自体に限れば以後大規模な戦闘は行われなくなったのです。
 そこで六太の罹災を応仁元年(1467)と仮定して当時の六太の年齢を推定します。52ページから、罹災後に兄と姉が、栄養失調か病気で死んでいるので、少なくとも罹災直後に捨てられたわけでないことが分かります。また、51ページの記述で、家が焼けたときに「煙の充満した家から転がり出」たとあるので、麒麟は人よりも成長が早いということも考慮して、一歳〜四歳であると考えられます。
 これにより、小松氏滅亡の年を文明八年(1476)〜文明十一年(1479)に限定でき、さらにこれにe.の要素を加えると、文明十年か文明十一年のいずれかとなります。ここでd.を加えれば特定できるかと思ったのですが、実はそれぞれの三年前となる文明七年二月と八年十一月に、いずれも京都洛中の上京で広範囲を焼く大火が発生しているので決め手にはなりませんでした。
 なので、ここでは174ページの「河野は応仁文明の乱以来手綱が緩んでいる」という尚隆のセリフから、一年より二年程度経過している方が自然と思われることから、

   
           
 小松氏の滅亡は文明十一年(1479)。
       
         
 という結論に至ります。

  なお、作中には「戦わなければいいのだ。小早川が攻めてきたら諸手を挙げて小早川の民になる。尼子が来れば尼子の民になる。河野なら河野。」という小松尚隆のセリフ(142ページ)があり、小松領に攻め込む可能性がある勢力として、小早川氏、尼子氏、河野氏がいることが分かります。しかし、小早川氏や河野氏はともかくとして、文明十一年(1479)当時、若い尼子経久を当主とする出雲尼子氏は、出雲守護代の地位にあったとはいえ、文明十六年(1484)三月には出雲の諸豪族の攻撃で拠城・富田月山城と守護代の地位を追われており、とても瀬戸内沿岸部に脅威を与えられるような存在ではありませんでした。
 とはいえ、六太の誕生年を応仁文明の乱の終結する文明九年(1477)としても、六太の年齢が固定されている以上、小松氏滅亡は延徳二年(1490)にしかなりません。尼子氏が現在の広島県福山市本郷町の国人である古志氏の大内氏への反乱を支援するのが永正九年(1512)であり、尼子氏自身が安芸・備後方面に対する軍事行動を本格化させるのはさらにその後のことです。
 これらのことから、設定の一部は無視せざるをえませんでした。無理やり解釈すれば、小松尚隆が超人的な洞察力をもって後年の尼子氏の脅威を予見していたということでしょうか。

   
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