廿日市塩座

はつかいち しおざ

 中世、安芸国西部の中心的都市・廿日市に置かれていた塩の座。

 永禄四年(1561)十一月、大願寺円回がまとめた厳島社大鳥居の造立・棟上の際の合力者のリストに、一貫文の合力をした「廿日市塩の座新左衛門」の名が見え、廿日市に塩座があったことが分かる。

  室町・戦国期の安芸国における製塩の状況は不明であるが、『兵庫北関入舩納帳』には備後塩や周防塩が大量に兵庫へと運ばれていたことが記されており、安芸国産の塩を含めてこれら周辺国産の塩が廿日市に集荷されていたものと思われる。

 『房顕覚書』によれば、天文二十四年(1555)三月二十五日、陶晴賢の部将・江良房栄が警固船百五十艘で大田川河口の佐東を攻撃した際、「塩船」を二、三艘拿捕したとしており、広島湾に「塩船」が運航していたことが窺える。おそらくこのような「塩船」が廿日市の塩座に塩を運び込んでいたのだろう。

  また 享保三年(1718)に書き写された厳島社廻廊の棟札には、天正二年(1574)十二月、「廿日市塩屋与三左衛門尉」が廻廊一間の檀那になっていることがみえ、先述の塩の座新左衛門とあわせ、廿日市の塩商人が厳島社の後援者ともなる有力者であったことがうかがえる。

 

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 秋山伸隆 「室町・戦国期における安芸・石見交通」 (『史学研究』218 1997)