下嶋 親忠

しもじま ちかだた

 戦国期の海賊衆・来島村上氏の有力家臣。下島親忠の名は、永禄二年(1559)六月十三日付の志駄岸八幡宮(山口県大島郡屋代島)の「御頭切田辻之事」にみえる。一般的な書状には下嶋次郎左衛門としてみえる。

周防平郡島への使者

  永禄十年以前の三月、詳細は不明ながら周防平郡島で「嶋中騒劇」と呼ばれる事件が起こる。この時、浅海四郎左衛門尉が来島村上氏方として戦ったらしく、来島村上氏の当主、村上通康がこれを賞している。このとき通康から「旨儀」を申し含められ、浅海氏に伝えたのが下島次郎左衛門だった。

主家の危機と毛利氏への援軍要請

  永禄十年(1567)十月、小早川隆景は土佐一条氏の侵攻にさらされる伊予国の緊迫した情勢を家臣・乃美宗勝に書状で伝えている。この書状によれば、下嶋次郎左衛門が毛利氏の本拠・吉田を訪れてしきりに援軍要請を行い、毛利方がこれを承諾したという。

 当時、来島村上氏は平岡氏とともに河野氏に味方し、伊予大津方面で一条勢を食い止めていた。そんな中、当主通康が重病を患い道後まで帰っており、重大な危機に瀕していた。同書状によれば、次郎左衛門はさらに隆景のもとを訪れ、重篤に陥った通康の病状を直接伝え、来島衆の抜き差しならない状況を訴えている。

毛利の援軍を補佐

 翌月三日、次郎左衛門は伊予に渡海した「芸州勢」(毛利軍)と同陣にいた(「十一月三日付隆景書状」)。小早川隆景は十月の書状で、伊予では不案内なので「来嶋親類中下次已下迄」に頼らざるを得ない事情を述べている。「下次」(下嶋次郎左衛門)は芸州勢の中にあって同軍の伊予での展開を補佐し、来島衆との連携役も担っていたと思われる。

 

関連人物

  • 村上通康:来島村上氏の当主。河野氏の重臣。河野氏と一条氏との戦争中に病没した。
  • 浅海四郎左衛門尉:周防の屋代島や平郡島を拠点とした海賊衆。

その他の関連項目

参考文献

  • 宇田川武久 『戦国水軍の興亡』 平凡社新書 2002